Tomoo Gokita





この『テレビマガジン』以降も頻繁に採用されたのですか。
バンバン出ていましたね。中学生になるとさらに拍車がかかって、『POPEYE』や『Olive』『anan』『流行通信』とか女性誌やファッション誌にも送るようになって、もう完全に投稿マニア(笑)。どういうものをどんなスタイルで描けば投稿されるかっていう傾向と対策も習得して、投稿ページの常連になっちゃった。当時は掲載されると図書券を貰えることが多くて、新宿の紀伊国屋書店の裏にあったレコード屋に行って貯まった図書券でレコードを買っていた。そんなことを高校生ぐらいまで続けていましたね。
依頼を受けてイラストを描くようになったのもその頃から?
ギャラを貰える仕事をやり始めたのは高校 1 年か 2 年くらい。お袋の知り合いの編集者が英会話の参考書の挿絵を描ける人を探していて、声を掛けてもらったのが最初ですね。白人と日本人の女の子が会話している絵とかを描いて、「ちょろいもんだな」って生意気なクソガキでしたよ。その後もバイト感覚でそういう仕事をちょくちょくやっていましたね。
どこかの記事で美術系の高校に進学したと読んだのですが。
頭悪すぎて、高校入試で全部落ちちゃったんです。「どうしようかな。働くのもなあ」と思っていたら、ある日、新聞に「文化学院新入生募集」っていう小さな広告を見つけて。お茶の水にある文化学院の分校が埼玉県の春日部市に新設され、面接だけで誰でも入れるっていう。他に行ける高校もないし「とりあえず行ってみっか」というノリで通い始めたんです。でも、とにかく遠くて、当時はまだ埼京線がなかったので毎日片道 3 時間20分。えぐいでしょ。普通の科目もあったけど一応は芸術がメインのかなり自由な学校で、そこで初めて専門的なデッサンとかを学ぶわけです。
 そこの美術の先生にはすごく影響を受けましたね。俺の実質的な師匠と言ってもいいくらい。「雑と大胆を混同してはいけない」とか「画面の四隅は気を抜くな」とか、技術以外のこともいろいろ教わったし、すごく懇意にしてもらいました。彼はその後俺がデザインやイラストをやっていたのは知っていたけど、画家として個展をやるようになる前に亡くなってしまってしまったので、先生に見てもらいたかったなって気持ちは今でもありますね。
本格的に美術を学んだことで、絵画に対する意識などにも変化が?
変わりましたね。その学校で初めて油絵を描いて、ワインの瓶とリンゴとかのいわゆる静物画ですけど、それが自分でも驚くほどうまく描けちゃったんです。僕って褒められて伸びるタチなんで、初めての 1 枚が奇跡的にうまくいって、先生からも「めちゃくちゃいいよ」って絶賛されたことで、なんか目覚めたというか。
 それまではサブカル人間だったので、レコードジャケットとかイラストのほうに目が行きがちで、美術というものをそこまで意識していなかった。でも、ニューペインティングのブームもあって、好きな作家が来日して展覧会をしたり、その頃からいろんな絵を意識的に見るようになりましたね。いわゆる NY の現代美術とかに触れるようになって徐々に感化されて、立体やインスタレーション、映像作品とかいろんなものがある中で、自分はやっぱりペインティングが好きなんだってことを確信しました。 Julian SchnabelDavid Salle とかがものすごく好きで、まだ高校生だったんで真似したりもして。当時はインターネットなんてない時代ですから、洋書屋さんに行っては雑誌に小さく掲載された作品を見て「かっこいいなあ」なんてことをやっていましたよ。
高校卒業後は?
その学校には高校部門の後に陶芸科や油絵、彫刻科とかの専門部門もあって、高校を卒業した希望者はそのまま専門過程に進めたんです。だけど、俺はそこには進学しなかった。先生たちからは引き留められたし、答辞を読む卒業生代表にまで選ばれたんですけど、もうあんなに遠くまで通いたくなかったし、学校に通うってことももう嫌で。それで「働こうかな」って漠然と思っていたら、親父が世間体を気にする会社員だったので「大学に行け」「落ちてもいいから美大を受けろ」と。何度も話し合ったけど、最終的には喧嘩みたいになっちゃって。でも、受験なんてしたくなかったし、そうしたら入試のない学校を発見して……。
なんだか高校進学の時と同じような……
そうなの! 笑っちゃうよね。武蔵野美術大学が経営している専門学校が吉祥寺にあって、その学校も誰でも入れるから、音楽マニアとか超個性的な奴だとかいろんな奴が来るわけですよ。それで、そこに入学したはいいけど、今度は音楽がやりたくなっちゃって(笑)。あとは高校時代から好きだったファッションですね。
 とはいえ、その専門学校でも意外と真面目にやっていたほうでしたよ。結構頑張ってはいたんですけど、美大の予備校的な学校だったこともあって、デッサンとか油絵が死ぬほどうまい奴らが全国から集まっていた。それで「こっちの方面では太刀打ちできねえな」と一種の挫折を味わうわけです。だけど、そういう技術だけがうまい奴って基本的にダサかったりして、そんな奴らと勝負していることが馬鹿らしくなってきちゃって。「デッサンも勉強して身に付いたし、俺はもう違う方向に進んで、もっと感覚を磨こう」という感じで、だんだん学校に行かなくなってしまった。最終的には親父の字を真似て勝手に退学届を出して辞めちゃいました。そこからはバイト地獄ですね。
絵とは関係のないバイトを?
オフィスとかの床清掃の仕事がメインで、それが終わったら居酒屋に飲みに行くという毎日で。「倒れるまで働いてみよう」なんて冗談で言っていたら、本当に働きすぎてバイトの最中に失神しちゃったんですよ(笑)
その頃も絵は描き続けていた?
描いていましたね。趣味ですけど。当時はパルコがやっていたグラフィック展とか、いろんな公募展に出していました。けど、ことごとく落ちるわけです。ガキの頃は雑誌の投稿ページの常連だったのに、そういう公募展には全く入賞しない。でも、今となってみればその経験がよかったですね。「絶対に見返してやる!」っていう強力なネガティヴパワーが培われましたから(笑)
バイトで貯めたお金はレコードと洋服に?
まあ、そうですね。あとはバンド活動。日大芸術学部の友達とバンド始めてドラムをやっていたんですけど、対バンした奴らが俺らのバンドに入りたいと言い出して、俺より遥かに上手いドラマーが加入したので、俺はトランペットになって。かろうじて吹けた程度ですけど。
そのバンドではどんな音楽を?
インチキジャズというか……。編成としてはドラム、ベース、キーボード、アルトサックス、トランペット、トロンボーンという感じなので一応はジャズっぽい。でも、やっている音楽は腐ったニューウェーブみたいな(笑)。何年か頑張ったけど「俺はやっぱりミュージシャンには向いてねえな」って気づいちゃって。
「自分はやっぱり絵だ」と?
そうは言っても、その頃はまだ絵で食っていけるなんて思っていなかったですね。でも、高校時代から芝居公演のポスターやチラシのデザインはやっていたんで、グラフィックデザインであればなんとか仕事にできそうかなと。当時はまだ写植を使って版下を作る時代で、その作業の流れはなんとなく覚えていた。それで、デザイン会社に勤める友達に入稿の仕方とかを教えてもらって、まずはクラブイベントのフライヤーから始めました。そういう仕事を続けるうちにミュージシャンの方から声を掛けてもらえるようになっていった感じです。
そうして徐々にグラフィックデザイナーとしての仕事が定着していった?
1990年代はデザインをやりつつイラストも描いていましたね。『Illustration』という雑誌の当時の編集者、吉田(宏子)さんは僕の恩人の一人。同誌の「the Choice」という公募コンテンツには若い頃から応募していたけど、全部落ちていて。そんな経緯を知る彼女が「五木田くん、なんかいいね」と言ってくれるようになって、そのあたりからイラストの仕事が増えてきた。
 それと、当時アートディレクターだった角田(純)さんとの出会いも大きかった。めちゃくちゃ面白い人で、初めて会った時に「きみ、いいじゃん。仕事があったら絶対に振るよ」とベタ褒めしてくれたんです。そうしたら本当に忌野清志郎さんの CD ジャケットや『Barfout!』の UA の絵を依頼してくれて。