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Koshiro Kihara



確かに木原さんは自分の内にある  “そのままのもの”  を表現しているのだと感じますが、その純粋なものを作品として具現化する際、純度を失わないために意識していることはありますか。
当たり前のことですが、自分がいいと思ったものだけをやる。人から見れば割と転々と作風が変わっているように映るかもしれないですけど、自分としてはただやりたいことに従った結果です。アーティストとして絵を売って食べているので、正直「売れなかったら……」と考えてしまうこともなくはないですが、そこには騙されないよう心に留めています。そういう後悔が過去にはあったし、やりたくないと思っていることをやる時間が最も苦痛なので。
売れるための作品は作らない?
そうですね。それが売れるからやるとか、売れないからやめるとか、そういうことはしないようにしています。
では、自分の内にあるものを表現して、さらにそれを見る人へ理解を伝えるために必要なことは何だと思いますか。
絵を見る側としては言葉で答えを教えてもらいたい人も多いのかもしれないけど、作家が自分の作品を言葉で語ってしまうと、それが唯一の正解になってしまう恐れがある。だから僕は、本当に必要な時でさえ少し補う程度の言葉で留めておいて、自分からはあえて言わないようにしています。
とはいえ、作品を発表して販売する際は何らかの言葉を添えなければならないと思いますが、そこには困難を感じますか。
そうですね、難しいんですけど、僕の思っているコンセプトを最低限の言葉で。作品に共感してもらえるちょっとしたヒントぐらいにしておきたいなと。
これまでに完成した自身の作品を改めて見て、何か驚いたことや妙に納得した経験はありますか。
ひたすら絵を描き続けていると、ずっと同じものを見ているので主観でしか捉えられなくなって、そこに面白い要素を見つけられなくなってきてしまう。加えて僕は割とすぐに自信を失くしてしまう性格ですが、そういう時は健志郎が新鮮な目で見て「この作品はこういうところに面白さがあるね」と客観的な意見をくれます。そうすると、「そうだよな」と安心するというか、本来の視点に立ち戻ることができるというか。
 あと、僕の手を離れた作品が、ギャラリーでスポットライトの当たる綺麗な白壁に掛けられているのを見ると、アトリエで見ていた時よりも数倍よく見える。その段階でようやく「いい作品だ」と思えることは結構あります。
創作に没頭して完全に  “素”  になった時の木原さんはどんな状態なのでしょうか。
どうなんですかね。大抵はアトリエに引き籠って、健志郎と二人で絵を描いて、ご飯を食べて、寝るという生活なので、基本的にはずっと素の自分だと思うんですけど。ただ、アトリエから出て他の人とコミュニケーションが発生するような時は素の自分ではいられないですね。
では、創作時は完全に素の状態なのですね。
そうですね。無理はしていないし、全くのストレスフリーというか。制作のストレスはあったりするけど、制作のことで悩めるのは幸せなことだと思っているので、基本はそのままの自分です。
作品におのずと現れる素の自分とはどのようなものだと思いますか。
難しいですね。思いつくのは、なぜか可愛らしい絵が多いということでしょうか。僕の好きな元永定正は見るからにユーモラスで愛らしい優しそうなおじいさんですが、僕の場合は可愛らしいところなんて全然無いのに、作品に登場するのは割とユーモアや愛嬌のある形や色だったりする。ただ、それが自分の  “素”  なのかどうかは……。
こんなことを言っていいのか躊躇いますが、こうしてお話を伺っていると木原さんの純粋さに可愛らしさを感じますが。
そうですか? 自分では全くわからないですね。
創作を重ねていく中でさまざまな気づきや発見があると思いますが、最近の発見はどんなことですか。
制作の細部での発見は日々たくさんあるんですけど……。そういえば最近、健志郎が用いるコラージュの技法と、僕が取り組んでいるトリミングの技法について面白い発見がありました。健志郎は写真やフィギュアを自分で組み立て、それを写真に撮って描くというプロセスなのですが、彼が最近シュルレアリスムの本を読んで、自分の制作を「これは立体版のコラージュだよな」って。本来の風景から雲の部分だけを抜粋したり、別の目的があったフィギュアを引き出してきたりして、それを再構築することで新たな世界を作っている。それで「これはシュルレアリスムのコラージュとほとんど同じ技法だな」と言っていて。僕が最近用いているトリミングという技法も、一部を切り落とすことで意味が抜け落ちて抽象的なものになる。だから、健志郎のコラージュと僕のトリミングはどちらの技法も意味を喪失させるために使っているから似ているなと、それまでは考えたこともなかったけど、健志郎と話していて気づきました。
周囲の期待や社会の規範といったものにとらわれず本来の自分を表現しようとする時、直面する挑戦は何ですか。
アーティストを始めてさほど経っていないので、やりたくないことを無理してでもやらなければならない状況には今のところは陥っていない気がします。ただ、唯一流されてしまうのは健志郎の反応。健志郎に「いい」と言ってもらえると嬉しい反面、さほどいい反応でないとかなりショックを受けてしまうので。他人に何を言われても自分を変えることはないけど、健志郎に「こうしたら?」と言われると、そこには結構流されてしまいますね。
 2 人だからこそ共有できる感覚があるのだと思いますが、逆に、全く違う部分もあったりしますか。
僕も健志郎も写真を使っていて、虚と実が複雑に入り組んでいるっていうところは似ているのですが、健志郎は抽象を一切やらない。僕の場合、制作の写真を撮るまでの段階は完全に抽象的な脳みそで、描く段階がどちらかというと具象的な思考になります。
性格はどうですか?
性格も基本的には同じですけど、健志郎のほうがちょっとポジティヴですかね。マイペースというか楽観的というか。それに比べて僕は割と深刻に捉えて考えてしまうほうです。
最近健志郎さんから共感を得た作品は?
セロハンを用いた作品の、写真に撮る以前の実際のセロハンのモチーフを健志郎がすごく気に入ってくれて。粘土で作ったモチーフなどは外には一切見せていないのですが、健志郎の言うとおりセロハンのやつはそれで作品になり得るかなと思って、SNSでも少し公開しています。