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DJ Kensei




DJ Kensei
Interview (2023—2024)
 




これまでもあらゆるタイミングで取材を受けてきたと思いますが、このインタビューでは変遷を辿りつつ Kensei くんの感覚的な部分にも触れることができたらと。
今の自分の興味には感覚的な話のほうがより近い気がします。自分が生きているこの環境は、音を聴いて何かしら反応する人たちや、コミュニケーションによって成り立っていて、自身の状態を感じたり、何か気づきがあったり、救われたりするような、生活に生かされる空間や体験を音で提供できたらっていう思いがあります。だから音楽に対する知識や情報はあるに越したことはないのかもしれないけど、感覚もすごく大切にしているよ。
初めて DJ Kensei のトラックを耳にしたのは90年代半ばのジャパニーズヒップホップのシーンでした。以降、折に触れて Kensei くんのプレイを耳にするたびに一貫した感性や世界観を感じる一方で、それまでのイメージとは異なる新鮮な空間を表現していて驚かされたことも多かったです。
そうやって言われることはよくあるんだ。ありがたいことに自分の DJ や音をみんなそれぞれに違う場面で切り取っているから新鮮に映るのかもしれない。でも、自分の中にはずっと続いているひとつの大きな流れがあって、日々グラデーションのように変化して、その延長で今に行き着いています。
特別な区切りがあったわけではなく、全てが連なり繋がっている?
そう。「ここまでやったらひと区切り」といったことよりも連続的に続けてきた気がする。とにかく自分と DJ に集中してきたのかもしれないし、その瞬間に全てがあったのだとも言える。今は違うけど以前は毎日のように DJ をやっていて、それが仕事でもあって、だから常に DJ のことを考えてきたし、音のことも捉えるようになって。そこまで没頭できる環境や楽しめる要素、タイミング、人、運命に恵まれただけかもしれないけど。あえて区切りというなら、感じ方という意味ではインドに行く以前とそれ以降かな。
音楽を生業にしようと決めたタイミングは?
あまり思ったことはないんです。続けたくて続けているっていう感じでもない。ただ、そこに向き合うパッションやこだわりはあるんでしょう。とはいえ、それほど執着もないんだ。DJ をしてその日が終わって、次の日が訪れて、それでまた DJ して、 DJ をして……、その縁でいろいろな音楽の環境や人に出会って、それが何十年も続いているっていう。普通だったらもうちょっと冷静に将来のこととか考えるかもね。今がもう当時思っていた将来だけど (笑)。シニア枠の入り口 (笑)
音楽を聴く側からやる側、つまり DJ になったのはいつですか?
高校2年くらい。一般的にはDJが職業でしかなかった時代なのかな。同じ高校の連中に誘われてディスコに遊びに行くようになって。それ以降さまざまな出会いがあって、 DJ ブースと音響設備のある空間で日々音楽を大音量で聴く経験ができた。多感な時期に家の小さなラジカセで聴くのとは違う新鮮な体感をできたことは今思うと大きい。その中で自分はパーティやディスコなどの華やかな遊びの雰囲気よりも、音楽的なプロフェッショナルの現場や DJ という当時の新しい役割に惹かれた。そうした現場に通っているうちに、DJ の人に「 DJ やるか?」って声を掛けてもらったのが始まりです。
年齢も時代もすごく早いですね。その後は DJ としてどんな活動を?
自分の世代ではそうかもしれない。クラブの DJ をしながら、DJ の Marvin に紹介してもらった Born というラッパーと組んで GBC というグループで活動していた時期があって。その後 Born がブルックリンに帰国したことをきっかけにグループは解散したけど、DJ はずっと続けていて、89年に留学先のブライトンで DJ をやったり、92年には「新しくクラブを作るから DJ として来ないか」って誘われてシドニーに 1 年ほど住んでいました。シドニーオリンピックはまだ先の話で、街を裸足で歩く人もいるような緩くてバブルな時代。自分はまだハタチくらいで、海外で DJ をレギュラーでやることが新鮮だったし、今でこそ当たり前になったレイヴや大規模なパーティもシドニーで初めて体験した。「バレアリック」って言葉をそこで知ったり、イギリスやアメリカからも DJ が来豪していて、De La Soul や PE Public Enemy) のライヴを観に行ったり。東京や NY とはちょっと違う不思議な角度からもいろいろな体験をしたんです。
そういう日々の中で「音楽はその場の空気やムードも足されてエフェクトがかかる、その感覚的な楽しさ」ってことを実感して。その経験は今の自分に紐づいていると思います。それでいてヴァイナルジャンキーだったので、毎月新譜のヒップホップやハウスのレコードを何箱も東京や NY からシドニーに送ってもらっていたんだよ。戻ってからも東京で DJ できるように。その時レコードを送ってくれていた友人達には本当に感謝です。
ヒップホップとの出会いは?
少し遡るけど80年代中盤、WhodiniJazzy JayMantronixMalcom McLaren といった  DJ がかけていたレコードや、スクラッチやトリックなどの方法論、あと、Yutaka くん DJ YUTAKA) やマイケルさんがやっていた宮益坂の『HIP HOP』とかに通っていた時代が出会いになるのかな。当時はブレイクダンスよりは  “DJ=ヒップホップ”  だと思っていました。
 その『HIP HOP』というクラブで Yutaka くんや Gino など黒人の DJ がターンテーブル 4 台使ってレコードをスクラッチしたり、サンプラーを鍵盤でコントロールしていたんです。それを初めて見た時にかなり飛ばされて。曲芸師のようにレコードを操って、でっかい音をスクラッチして、レコードがキュッとなる感じとか……、まるで空気を動かしているみたいで。その強烈な音像体験で (今の表現になってしまうけど) 宇宙のようなものを感じました。それ以来ずっとヒップホップの DJ として90年代を過ごしてきたと思います。
その時の衝撃は今でも鮮明に覚えているのですね。
デジタルではなくアナログを引っ掻く行為をその時代に生で体験して、音像や時間、風景ごと操るということに、それまで感じたことのない感情をいっぺんに持っていかれたような……。当時は言語化すらできていなかったと思う。楽器は演奏するものだけど、 DJ はレコードを使って過去に録音されたフレーズや時を操って、それが音となってスピーカーから流れてくる。その感覚にすごく反応したんだと思います。逆再生とかも含めて (笑)
 だから、自分にとって DJ という行為は  “ただの音楽”  よりもはるかにプライオリティが高いと思った。もちろん音楽は好きなんだけど、DJ という行為にとても魅力を感じたという前提があって、そこに音楽が含まれているということ。感情や感性も、視覚や嗅覚まで反応した体験でありタイミングでした。
90年代半ばには日本のヒップホップシーンのど真ん中にいましたが、そこに至るまでの道筋は?
80年代後半から90年代半ばまでは本当にヒップホップにのめり込んでいたから、その影響は大きいですね。
 記憶が少し前後するけど、80年代中盤辺りに Yutaka くんと Marvin がやっていたヒップホップクルーのレコーディングで古川橋のスタジオに行ったこととか覚えているよ、DJ が終わった朝方に。その後、自分がレギュラーでやっていた『Razzel Dazzel』というクラブの「PEACE BALL」っていうイベントで、HOMEBOYS の大橋くん (DJ MASA) という先輩から Honda くんや KRUSH  さんを紹介してもらって。Hondaくんの三茶の家に行ったりしたな。




石田さん ECD) は『Razzel Dazzel』で出会った Tatsuo さん 須永辰緒に新宿の『ミロスガレージ』で紹介してもらった。EAST END の YOGGI や GAKU と六本木の『CLEO PALAZZI』で一緒にイベントをやっていた関係で FUNKY GRAMMER のやつらとも出会ったり。
 シドニーから戻った90年代初期 (93年〜) から都内のさまざまな箱でフリーで DJ を始めて、東麻布の『ENDMAX』っていうクラブで Takada さんや BEAT、KEN-BO、Yujiro なんかと始めた「COOLY HIGH」ってイベントは、ペイジャー MICROPHONE PAGER) や RHYMESTER  がライヴしたり、ギドラ KING GHIDORAH) は東京の高校のネットワークで共通の友人がいて知っていたり、