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A Series as the Door:
Luminant Point Arrays
Stephan Tillmans








Stephan Tillmans
Interview (2024)
 









まずはあなたのバックグラウンドから伺います。どのような環境や家庭で生まれ育ったのでしょうか。
出身はドイツ北西部の小さな町で、典型的な中流階級のパッチワーク的な家族構成の中で育ちました。 2 人の妹と 1 人の兄という 3 人の異母兄弟がいて、妹の 1 人は父と一緒に暮らし、僕を含めた残りの兄妹は母と継父と暮らしていました。
どんな子供時代を過ごしましたか。現在のあなたの感性や創作に繋がる当時の出来事を教えてください。
小学校の最初の成績表には「授業に集中せず、窓の外を見ながらいつも空想にふけっている」と書かれていましたね。慣例的な学校制度にはあまり馴染めなかったようで、 3 年生と 7 年生の時に留年しました。内気な性格だったので、アートだけが自分を表現する唯一の方法だとずっと思っていました。美術の授業はいつも楽しかったし、ギターを始めたり、10歳の時に父からもらった初めてのアナログカメラを持ち歩くことも大好きだった。振り返ってみれば、常にクリエイティヴなことが好きで、でも、自分に最適な表現手段を見つけるまでには長い時間がかかりました。
全員が楽器をたしなんだり芸術的な趣味を持っているような家族で、家には音楽や絵画や写真が溢れていて、幼い頃から常に何らかの形でアート表現に触れていました。
1996年に初めて自分のコンピュータを手に入れてからは、主にゲームを通じてグラフィックデザインに興味を持つようになり、 FIFA の自分用のキットを作ったり、 Need for Speed の車をデザインしてゲームに導入したりしていた。だけど、本格的に写真にのめり込んだのは2000年代初頭に初めてデジタルカメラを購入してから。フィルムの現像が待ちきれなかった僕にとってデジタルカメラはまさに天の恵みで、やがて自作のレンズでカメラを改造したり、写真編集やデジタルコラージュ、グリッチアートを試すようになって、さらにはグラフィックデザインに関連したプロジェクトにも取り組むように。芸術を大切にする家族だったから、実験や表現のために何時間も創作に没頭するのはごく自然のことだったんです。そのことには心から感謝しています。
写真や絵画、デザイン、音楽など、あなたに強烈な印象や影響を与えた作品についての一番古い記憶は?
古い記憶ということなら、 SEGA Master SystemSEGA Genesis のゲームの美しさや音楽ですね。子供の頃は兄と一緒にそうしたビデオゲームをプレイばかりしていて、時にはただ音楽を聴くためだけにゲームを起動することもありました。
Berliner Technische Kunsthochschule(現在のUniversity of Europe)でコミュニケーションデザインを学ぶ以前は経営を学んでいたそうですが、そこからデザインの道へ進むまでの経緯を聞かせてください。
進学先の専攻を選ぶ時はかなり悩みました。クリエイティヴな分野で何かをやりたい気持ちはあったものの、具体的に何をすればいいのかわからず、美術大学に出願する自信もなくて、さらに親戚や友人たちからの何気ない言葉が、デザインやアートを生業にするという信念を揺るがしました。
そこから何もせずに半年ほど過ごした頃、両親から、幅広いキャリアに繋がる分野を学んではどうかと提案されました。そこで、ほぼ無作為に国際ビジネスを選んだけど、わずか 1 週間で自分には合わないと確信してしまって。それでも興味のあることだけは吸収しようと少しだけ続けた後、最終的に退学することに。その頃には、自分の芸術的能力に対する自信が多少なりとも着いて、ようやく美術学校に出願したけど、どこにも合格できなかった。そこで、コミュニケーションデザインの専攻に進学するために、ポートフォリオの作成に本格的に取り組み始めました。
ベルリンを何度か訪れるうちに、次のステップへ進むには理想的な場所だと感じて、2005年にベルリンに住む両親の友人の家に引っ越しました。劇場で働く彼女から小道具部門の仕事を紹介してもらい、夜はそこで働いて、昼はポートフォリオ作りに打ち込んでいました。そして、グラフィックデザイン、写真、スケッチでポートフォリオを作り上げ、Berliner Technische Kunsthochschule(ベルリン芸術専門学校)に合格することができた。2005年に設立したばかりの学校で、教授の一人が僕に何らかの可能性を見いだしてくれたおかげで、そこで学ぶ資格を得ることができたんです。すごくラッキーでしたね。
『Luminant Point Arrays』は学士論文のプロジェクトだったそうですが、当初は何をテーマに探求しようと考えたのですか。
学士論文では具体写真(コンクリートフォトグラフィ)または非対象写真について書きました。これは1960年代のドイツの写真に関連した非常に理論的な概念で、抽象がスペクトルの端に、写実が中間にあるとすると、具体写真はもう一方の端に位置します。このジャンルは「写真画像が描写的な表現以外のものになり、写真技法そのものが作品の主体になり得るのか」という問いを扱っています。
具体写真について話し出すと退屈されてしまうことが多いので、自分の作品の文脈ではその話題には触れていません。ただ他の人が僕の作品をどう解釈するかを楽しんでいます。
ブラウン管テレビをモチーフにするという着想、また、そこから映像が消える瞬間の光を撮影するというアプローチはどのように見いだしたのですか。デザインを学んでいたあなたが写真という形態を選んだ理由も教えてください。
当時通っていた大学ではコミュニケーションデザインの分野は幅広く、学期ごとに多岐に渡るトピックから選択ができました。グラフィックデザインや美術史、ビジネスのクラスに加え、必ず毎学期に少なくとも 1 つは写真のクラスを履修するようにしていました。デジタル写真の実験を始めた頃は技術的な限界に悩まされたけど、それでも写真が大好きで、必ず上達するのだと決めていたんです。
さらに、写真のクラスの多くをエミー賞受賞者であるアートディレクター兼映画監督の James Higginson が担当していたことも要因に挙げられます。彼は後に僕の学士論文の指導も担当しました。彼の授業は技術的なスキルからアートディレクション、美術史に至るまで包括的で、構図や照明、技術的側面、芸術表現に関する彼の教えが僕の視野を大きく広げてくれました。それに、彼はとても素晴らしい人で、一緒に作業するのは本当に楽しい経験でした。
最終学期には彼のアート写真のクラスを履修したけど、学期のプロジェクトのアイデアがなかなか思いつかなくて。そんなある夜、当時の彼女が使っていた古いブラウン管テレビを見ていた時、電源を切って画面が消える瞬間の現象が目に留まった。それまでに何度も見ていたはずが、プロジェクトを模索中だったからか、その時は特に敏感になっていたのでしょうね。
そして僕はカメラを手に取り、実験に取り掛かり始めました。撮影した写真はどれも似ているようで少しずつ異なり、それが最初から僕を強く惹きつけました。その瞬間を捉えるのは簡単ではなく、リズムをつかむまでには時間がかかりました。数日後、別のテレビを見つけて撮影したところ、最初のシリーズとは全く違う結果が得られ、それを機に、完全にこのプロジェクトに没頭するようになりました。
それからというもの、ブラウン管テレビを見かけると、被写体として適しているかどうかを確かめるために、つい電源を入れたり切ったりするように。現在でもそうです。このプロジェクトは最初から私を引き込み、次第にテレビを探して撮影することが執念のようになっていった。これほど没頭した作品はなかったし、従来のコミュニケーションデザインのプロジェクトよりも学士論文にふさわしいと確信しました。教授たちはこの作品に可能性を見いだし、僕の決断を支持してくれました。
具体的にどのようなプロセスで撮影やプリントを行なったのでしょうか。また、その創作プロセスにおいて工夫したことや重視した点は何でしょうか。
基本的なセットアップは至ってシンプルです。テレビの前にカメラを設置して、片方の手でシャッターを、もう一方の手でテレビの電源ボタンを押すだけ。ただ、この一瞬を捉えるにはタイミングが極めて重要です。また、反射を防ぐために真っ暗な環境が必要で、さらに画面を埃のない状態にしておくことも不可欠だということにもすぐに気づきました。画面に髪の毛やゴミがあると、どんなに良いショットが撮れても台無しになってしまうんです。








ホワイトノイズやテレビ信号ではなく、黒い入力画面を使用するほうが好みで、残留する信号のアーティファクト(ノイズ)が目立ちすぎると感じるからです。
完璧な瞬間はほんの一瞬で過ぎ去ってしまうから、タイミングを合わせるにはそれなりに練習を要しました。一度リズムが整うと、撮れる画像は似通ったものが多くなり、まったく同じにはならないにせよ、よりユニークな結果を得るためには意図的にリズムを崩す必要もある。真っ黒い画面しか映らなかったり、トリガーが遅れたりと、1000回ほど試行してようやくシリーズに適した結果を得ることができました。これはデジタル写真でしか実現できず、モアレ効果を許容しなければならないこともありました。
新旧さまざまなテレビを使ってみたり、コントラストや明るさといった設定もいろいろと試しました。また、テレビを消すまでにどの程度の時間つけていたか、リモコンを使ったのか本体の電源ボタンを使ったのか、こうした多くの要因が結果に影響を与えるので、中毒性がありつつも挑戦的なプロセスでした。また、言うまでもなく露出速度も非常に重要で、短い露出時間では線状の形が多く現れ、長い露出時間だとより固形的な形が作られます。ただ、いずれもごく僅かな露出時間内で調整せねばならず、露出速度がテレビのフレームレートより速ければ画面に黒いバーが現れてしまうし、一方で、露出時間が長すぎて画面全体が光で埋まってしまうと、造形的に面白みに欠けてしまうんです。








テレビによって光の現れ方にどのような違いがありましたか。また、その中から作品として発表する写真は、どのような判断基準をもとに選んだのですか。自分の中で明確なガイドラインはありましたか。
それぞれのテレビには独自の特徴があって、先述のとおり、設定やタイミング、その他の要因によっても変わってきます。全てのテレビに共通する基本的なパターンは、画面のガラスの裏にあるシャドウマスクによって決まりますが、その配置や形、色合いはそれぞれ異なります。
最終的な写真を選ぶのには時間がかかりました。この現象が生み出す視覚的なバリエーションを示しつつ、シリーズとしての一貫性を持たせる必要もありました。最終的には、グラデーション、固形的な形、線状の形を混在させ、視覚的な観点から選択しました。
絵画や彫刻などの分野とは異なり、写真での表現は被写体をセットすることはできてもコントロールできない部分が大きいと思います。このシリーズに取り組むうえで撮影の際にどんな瞬間を狙っていましたか。または、ある程度は偶然性に任せていましたか。
全ての試みの結果は、カメラの設定、自分のタイミング、そして古いアナログ技術がその瞬間に生み出すものが組み合わさったものです。つまり、偶然性が大きく関わっていたということですね。
創作を続けて探求を深めるにつれて多くの発見や考察を経たと思うのですが、その経緯の中で当初想定していたテーマやコンセプトはどのように明確になっていったのか、もしくは変化していきましたか。
視覚的な観点からすると、このシリーズには新たな可能性が限りなく広がっています。ただ、同じモチーフをもう一度撮影しようとする前に、使えるテレビ自体が尽きてしまうかもしれません。最近は AI ツールを用いてシリーズを拡張しようと実験していますが、アナログ技術と AI を新たなコンセプトで組み合わせる魅力的なアプローチはまだ見いだせていません。
コンセプト的には、メディアと  “真実”  というものの意味が変わりつつある現状に関心があります。テレビをオフにする行為は、それを象徴するシンプルなメタファーと言えます。『Luminant Point Arrays』のアイデアもここから来ていて、アナログ技術の遺産から生まれた純粋な形が、別の視点を持つ瞬間を捉えることになりますが、この考えについては自分の中で完全には整理しきれていません。
『Luminant Point Arrays』を初めて見た時、作品としてのコンセプトも、それがブラウン管テレビの画面を写した写真であることもわからないまま、純粋にヴィジュアルとして惹かれる人も多いと思います。鑑賞者に何がどう伝わるかといったことを作者として意識していましたか。
展覧会では必ず説明文を添えています。制作のプロセスや背景を説明しないことも考えましたが、古いブラウン管テレビを撮影したものだと知ると、特にブラウン管テレビをオフにした時の現象を覚えている来場者は楽しんでくれるようです。説明文を読む前に「この画像は何だと思ったのか」を来場者から聞くことが多く、それは興味深いですね。大抵は何らかのデジタルアートだと思うみたいです。




 
Art In The Age Of...Planetary Computation
Witte de With, Rotterdam
2015




『Luminant Screen Shapings』は『Luminant Point Arrays』とは対照的に白黒テレビを被写体にしていますが、カラーとモノクロということ以外にどのような違いがありましたか。
制作プロセスはほとんど同じですが、視覚的には、白黒テレビにはシャドウマスクがないのでグリッドパターンは存在しません。そのため、形状は浮遊感のある有機的な質感で、まるで煙のような印象を与えます。一方で、グリッドパターンが『Luminant Point Arrays』を非常にテクニカルで未来的なものにしているので、これら 2 つのシリーズの審美性はそれぞれの起源とうまく調和していると感じます。