| English | Japanese |
DR.ME




DR.ME
Interview (2023)
 




はじめに、育ってきた環境や若い頃夢中になったことなど、それぞれのバックグラウンドを教えてください。
Ryan (DR)僕が生まれたのは南アフリカのヨハネスブルグで、 3 歳の頃にマンチェスターへ移り住み、両親の離婚後に母の出身地であるスコットランドのパースへ引っ越して、そこで育った。南アフリカでのことは覚えていないから、自分を形成したのはスコットランドでの日々だろうね。パースはとても小さな町で、観光客には美しい風景に映るだろうけど、実際にそこで生活しながら成長した僕にとっては何もやることのない厳しい環境だった。その頃は、SlipknotPanteraNirvana といった  “モッシュ”  な音楽やスケートボードが好きな「Moshers」と、夜に店の前でたむろするテクノミュージック好きな「NEDS」という 2 つのグループに分かれていて、僕はその間を付かず離れずって感じで過ごしていた。 BMX でスケートパークへ行ったり、ローラーホッケーをしたり、店の外でお酒を飲むこともあったし、あと漫画を描いていたね。Trey Parker & Matt StoneMatt Groening に刺激を受けて、キャラクターの世界を丸ごと描いたり、奇抜なストーリーのミニコミを作ったりして、大人になったら漫画家になりたいと思っていたんだ。学校では美術が得意だったから「Art Kid」なんて呼ばれて、当時はヒップホップとニューメタル、特に TupacThe Offspring が好きで、 NasSnoop Dogg の似顔絵を鉛筆で描いたり、そんな日々だったよ。パースで育ち、友人に恵まれたことで、常に謙虚でいること、今あるものに感謝することを学んだと思う。卒業後はアートスクールに進学する機会に恵まれ、パースからマンチェスターに戻って Manchester School of Art に入学した。当初はファインアーティストを目指していたけど、音楽とデザインの深い歴史を持つマンチェスターではグラフィックデザインに気持ちが傾き、デザインとアートディレクションを学ぶことに。そこからグラフィックデザインとヴィジュアルアートを深く掘り下げるようになったし、 Eddy とも出会った。アーティストやデザイナーとしての成長に極めて重要な10代後半から20代前半の時期を、僕はマンチェスターで才能溢れるアーティストやミュージシャンに囲まれて過ごしたんだ。親しい友人たちが結成したバンド WU LYF は一躍有名になって、 Letterman Show にも出演したほど。





WU LYF
Photo: Jonathan Flanders
 
SOLIDARITY WORLD TOUR Poster art WU LYF
 
WU LYF - HEAVY POP @ Letterman Show
05/01/12


 


僕は彼らと一緒にアートと音楽を作りながらワールドツアーを巡ったこともある。彼らが独創的な 1 枚のアルバムを残して解散した後、ドラマーの Joseph Manning が僕の親友の Jonoと Craig と結成したバンドで僕はキーボードを担当し、DR.ME と並行して活動していたんだ。
Eddy (ME)僕はイギリスの北西部、湖水地方のケンダルという町の出身。ケンダル・ミントケーキというすごく甘いスナックバーの産地として知られる町だよ。父は数学の教師、母はタペストリーの織物を作るアーティストで、好んで音楽を聴く両親ではなかったから、僕は町のあらゆるレコードショップを巡ったり、友人の勧めを頼りに音楽を探っていた。 Jeff Buckley から The StreetsSupergrass、あと、今ではすっかりカッコ悪くなってしまった The Cooper Temple Clause といったインディーズのスーパーヒーローたちをね。それから、僕のチェロの腕前はかなりハイレベルで、当然ベースも弾けるだろうってことから、友人とバンドを組んで活動していた。当時の仲間は Wild BeastsWoman’s Hour といったバンドで活躍し、音楽面では僕よりも成功しているよ。



‘End Come Too Soon’ farewell tour print for Wild Beasts
 



テープやCDのジャケットデザインに関心があるってことは、自分でもかなり早い段階で気づいていたと思う。恐らくそれは、好きなレコードのブックレットを見ることで彼らの美的感覚に触れ、秘密を解き明かすような感覚だったからかもしれないね。
あなたの審美性や感性の形成に影響を与えた作品や人物を教えてください。
DRPeter DoigDash SnowHarmony Korine の映画、William Burroughs のカットアップ手法、土曜日の朝のアニメ、父のレコードコレクション、フルクサスのムーヴメント、フットボールのスカーフ、サザン・ヒップホップ、Michel Gondry のミュージックビデオ、David Beckham、母の子供の頃の絵、そうしたものが僕の美学や感性を育むのに重要な役割を果たしているよ。
ME覚えているのは、ケンダルで開催された Bridget Riley の展覧会に出向き、ひとつの作品の前にずっと座っていたら、いい意味で具合が悪くなったこと(笑)。それから、僕が16、17歳の頃、母は Neasden Control Centre こと Stephen Smith というクリエイターの母親と一緒にアートスクールに通っていて、家へ招待した Stephen が出版されたばかりの彼の本を持ってきたんだ。そこにはすごく実験的なペインティングやタイポグラフィ、コラージュが掲載されていて、あまりの素晴らしさに衝撃を受けた。「生活のためにやっているのか」と尋ねると、彼は「そうだ」と答えた。それを聞いて僕は、自分のやるべきことがわかった気がしたんだ。
アートやデザインに関心を抱くようになったきっかけは何でしたか?
DR本気で目覚めさせた、少なくともアートやデザインを趣味ではなく職業として追求するという考えを最初に提示してくれたのは、美術の先生の William Wallace だったと思う。彼にスコットランドの画家 Peter Howson の作品を見せてもらった時は、その極端な構図とクレイジーなディテールに心底驚いたし、あと、 Neville Brody のグラフィックデザイン、特に『The Face』誌の作品を見せてもらった時も同様に圧倒されたことを覚えている。
ME僕の場合は、さっきも話したとおり母がアーティストで、彼女がいつもスケッチを描いたりタペストリーを作ったり、展覧会に出向いたりしていたから、その影響かな。いや、絶対に母の影響だろうね。何歳の時だったかは忘れたけど、コーンウォールのセント・アイヴスを訪れた休暇中に、母と一緒にデッサンのクラスに通ったんだ。僕が真剣に取り組むようになったのはその頃からだったと思う。
 2 人の出会いは Manchester School of Art のデザイン科への入学初日だったと読みました。この学校を選んだ経緯と、そこで学び得たもので現在の活動に繋がった最大の収穫を教えてください。
MEそう。実は初日に、名簿で名前が隣だったという理由で、 Eddy とペアを組んでブリーフに取り組んだんだ。僕は Manchester School of Art の基礎クラスに応募したけど、当初はポートフォリオが不十分で入学できず、Salford University で基礎を学んだ。どうしても Peter SavilleLinder Sterling を輩出した大学で学びたくて、友達も作らず、毎日必死に勉強した。School of Art に通う友人を訪ねては、アマニ油や木張り床、木製のロッカーの匂いを感じて、「必ずここで学んでやる」と胸に誓ったものだよ。
DRスコットランドの小さな町からロンドンへ越すのは大変そうだったし、僕にはマンチェスターが妥当な選択肢だった。ただ、正直なところ、僕らが得た最高の収穫はお互いに出逢えたことで、最も貴重なレッスンはイラストレーターの Mike Perry のもとで 3 ヶ月間インターンをしたこと。




Mike Perry studio, Brooklyn
 


成功したスタジオを独立して運営・管理する術をそこで学び、その全てをマンチェスターに持ち帰ってスタジオを設立したんだ。