| English | Japanese |





その後2003年に NODE を創設しましたが、当時はどのようなデザインスタジオを目指していましたか?
同じ学校の同級生で、後に NODE の共同創設者となるノルウェー出身の Anders Hofgaard と一緒に、 Rietveld 在学中に非公式ながら自分たちのスタジオを設立しました。過渡期にある都市であれば多くの自由が得られるだろうと、卒業後はベルリンへ拠点を移すことに。当時の僕らにとってアムステルダムは窮屈だったし、ドイツ統一から12年経っていたとはいえ、ベルリンには真のデザインシーンがまだ確立されていなかった。それも魅力でした。当時のベルリンでアートやデザインの分野に目を向けていたのは僕らだけでしたから。目指していたのは興味深いクライアントとの刺激的なプロジェクトで、それによって作家性のあるデザイナーになれると考えていました。商業的なクライアントとの仕事が一般的ではなかった Rietveld からの影響が、当時の僕らにはまだ残っていたのかもしれません。
NODE は早い段階からベルリンとオスロの両都市にスタジオを構えていますが、 2 つの街に拠点を置く理由と利点は何でしょうか。また、現在のスタジオの規模や運営方法を教えてください。
Berlin Palast der Republik 2005 Lars Ø Ramberg
Website
Wikipedia
Google results

mono.kultur
mono.kultur
Wikipedia

Sissel-Tolaas by foto-di-matti
Sissel Tolaas
Instagram
Wikipedia
Google results
Sissel Tolaas in her Berlin laboratory / Fotodimatti, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons / Desaturated from original
当初からすでに Anders には素晴らしい人脈があり、オスロにはいくつかのクライアントがいて、そのおかげでスタジオは好調なスタートを切ることができました。最初の 7 年間はオスロのクライアントに向けた案件をベルリンで手掛けることが大半で、また、当時は Lars Ramberg などスカンジナビアのアーティストやギャラリーのオーナーがベルリンに移り住むことも多く、ベルリンを拠点とするそうした北欧のクライアントとの仕事も結構ありましたね。同時にベルリンでも良い人脈を築くことができて、『mono.kultur』やノルウェーのアーティスト Sissel Tolaas との仕事も経験しました。 2 つの街で活動することで仕事の多様性が広がり、また両都市を行き来する旅で刺激を得ることもできた。若いデザイナーであった僕にとっては素晴らしいビジネスモデルだったし、ベルリンよりもノルウェーのほうが文化的資金の調達がかなりスムースでした。