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DJ Kensei



 バブル時代から未来の見えない時代になっていく変遷を感じる中で、そういう時期に自然の音を録りに行って、その周波数をヒップホップの機材や手法でトライしていたのが Indope 後期や Final Drop だった。DJ というアートフォームから派生した音楽の進化に興味があって、あとは感覚的な部分や風景などをもとに、当時の自分たちのできる手法によって音で表現する、現象を音や映像に落とし込むみたいな。この頃は PC への移行期でもあって (今はまたハードに戻ったり、さらに細分化はしているけど)、当時はそういう表現があまり一般的ではなかったから「ジャンルでいうと何?」って聞かれたりしたけど、世界を見渡せばアプローチは違ったとしてもそういう表現をやっている人たちもいて、出会う機会も結構ありました。今でいうアンビエントやエクスペリメンタル、エレクトロニックなんかに括られるのかな。ラップトップミュージシャンって言われたりしてた (笑)
同じく2000年頃に「OVA」というパーティが始動し、Kensei くんも毎回のように DJ していましたよね。今では考えられないほどドープで音響的なトラックが当たり前のように流れていて、多くの人がその新たなサウンドを求めて集まり、パーティ自体がある種のムーヴメントのようでした。この頃の状況や心境について聞かせてください。
当時はまだトランス、ハウス、ヒップホップ、ドラムンベースといったジャンルが明確に線引きされていた時代で (もちろんそれぞれのジャンルの DJ もいろいろな音源はかけるだろうけど)、そうした既存のジャンルには収まらない個性的な表現をしている DJ やアーティストを Ryoma 奈良龍馬) っていうオーガナイザーの目利きで集めてやっていたのが「OVA」だったと思う。今でこそそういうミクスチャーなパーティは普通にあるけど、「OVA」はその走りなのかもしれないね。決まったクラブで同じジャンルのパーティをやっていくっていう当時あったシステムも覆して、毎回場所も組み合わせも転々と変えていて。
 もともと Ryoma は92年のオープニングで Kid Capri を呼んだ『EROS(六本木)で働いていて知り合ったんだ。その彼が「ヒップホップをかけているのに全く違うものを感じる」って、自分を「OVA」に誘ってくれたんだよね。
そこでは自由になれた感じでしたか?
そういう感じもあったのかもしれない。とにかく音源ややりたい方法のイメージはたくさんあったんだけど、表現する環境があまり無い時期だったっていうのもある。世紀末を迎えて「これからどうやって生きていくんだろう」とか漠然とした不安や危機感を感じていた時に「OVA」は「オープンで自由な空気こそが未来だ」って思考で、  “月でパーティをするのを目標に(笑)”  始めたんだと思う。当時はそこまで明確な言葉にはなっていなかったけど、その感覚に光を感じたからこそ自分も賛同して参加しようと思ったんですよね。オリジナルな風景を作れるジャンルに収まらない DJ やアーティストが集まる人間交差点で、自分もそこでたくさんの新たな出会いがあったし、その後に続く縁にも繋がった。GoroさんGoRo the Vibratianと出会ったのも「OVA」だったんじゃないかな。そういうパーティだったからこそ文化的なコミュニティが生まれたし、自分も表現できていたんだと思います。デコレーションやライティング、映像 (VJだけでなく) のプロの存在も意識するようになって、 DJ として表現するイメージも広げてもらった。
 自分はクラブ音楽という側面では行き詰まりを感じていたタイミングでもあったし、振り返ってみても「OVA」でやってよかったなって思うし、すごく重要なパーティだったと思いますよ。他にも「FOL (Flower Of Life)」や「ELEVEN」「Comunicate Mute」とか面白いパーティにも出逢ったし。新宿の『リキッドルーム』とかも異種パーティをたくさんオーガナイズしてくれたりして、その先の楽しさも感じた時期ですね。