Interview (2024)
まずはオリジンやバックグラウンドから聞かせてください。どのような環境で子供時代を過ごしましたか。両親と 5 歳上の兄貴の 4 人家族で、実家はこのアトリエから歩いて20歩くらいのところ。父親は広告代理店勤めのデザイナーで、後々なんか偉くなっちゃってクリエイティヴディレクターに。お袋は専業主婦だったけどジャズが好きで、俺が10代の頃からはジャズ喫茶でバイトしていましたね。
お父さまがデザイナーだったのなら、家には画集などが並んでいたとか?画集はありましたけど、仕事でほとんど家にいない親父で、よく聞く「父さんと楽しくキャッチボール」なんて楽しい思い出はひとつもなかった。そんな状況だったこともあって、親父とお袋はだんだん仲が悪くなって喧嘩ばっかりしていましたね。俺が高校生の時、親父が会社に行っている間にお袋が夜逃げみたいに家出して、俺もそれを手伝って。でも、お袋は親父の留守中にたまに飯作りに帰ってきたり、飲みに来たりしていて。俺も友達を連れてお袋のジャズ喫茶に遊びに行ったり、お袋とは友達みたいに仲が良かったけど、非常に歪んだ環境でしたし、あまりハッピーな家庭ではなかったですね。
ご実家はこちらの近所とのことですが、あえて地元にアトリエを?いや、たまたまです。両親が別居していた頃から俺はイラストやデザインをちょこちょこやっていて、実家の部屋は狭いんで、もうちょっと広い仕事場を借りようと探し始めたんです。都内を中心にずいぶん長い間探していたけど、なかなかピンと来るところが見つからなくて。そんなある日、この建物の窓が全部開いているのを見かけて。ここはもともと糸巻き工場で、俺が子供の頃からある建物。隣にいる大家さんも知り合いなので、「ここ空いてんの?」って聞いたら「そう。借り手がいなくてね」と。「じゃあ、俺が借りる!」って即決して。当時はまだ美術の世界に食い込んでいなかったからデカい絵を描くこともなくて、もっとガラッとしていましたけど。
どんなお子さんでした?他の取材でもよく話していますけど、すごく内気で物静かな少年でしたね。粘土で何かを作ったり、絵を描いたり、プラモデルを作ったり、一人で遊ぶのが好きで。「野球やろうぜ」って友達から誘われると、内心は家で遊びたいけど嫌々ながらも仕方なく参加するみたいな。
絵を描くことが好きというのは小さい時から変わらないのですね。内気な性格は?実は今もどこか内気なところもあるのかもしれない。だけど、小学 4 年生の時にプロレスの大好きな転校生がやってきて、彼に感化されて俺もプロレスに目覚めたんです。そこからは変わりましたね。内向的だった少年がプロレスごっこをやるようになって、急に活発で社交的な人間になっちゃった。プロレスが俺を変えてくれたわけですよ。それからは中学高校とずっとプロレスのことばかり考えていました
音楽はお母さまの影響で?兄貴の影響が大きいですね。音楽だけじゃなくてサブカルチャー的なものは全部兄貴から教わりました。当時は兄貴と同じ部屋だったから、彼が買ってきた雑誌とかレコードを勝手に見たり聴いたりして。横尾忠則さんや湯村輝彦さんを知ったのもその頃。だから、俺の基盤は兄貴に作ってもらったようなもんです。もし兄貴が全然違う趣味の人間だったら、俺は今みたいにはなっていないと思います。
小さい頃からよく絵を描いていたとのことですが、表現する楽しさを初めて実感したのは?幼稚園の時かな。俺の描いた絵を先生や友達が「すごくうまい!」って褒めてくれて、他で褒められることが滅多にない子供だったんで、めちゃくちゃ嬉しいわけですよ。絵と言ってもマジンガー Z とかアニメのキャラクターとかですけど、みんなが「描いて描いて!」と行列ができちゃって。
好きだけじゃなくて当時から絵が上手だったんですね。まあ、うまかったですよね。でも、模写というか単に漫画の模倣ですよ。あと、兄貴がすごく絵がうまくて、ストーリー漫画を描いて友達と送り合ったりしていた。それを俺が「面白え」って読んで、それでまた兄貴の真似をして漫画を描き始めてみたり。本当に兄貴の真似ばっかりしていたから。
小さい時は絵を描くことが好きでも、成長するにつれて描かなくなる子供も多いですよね。五木田さんはずっと描き続けていたわけですが、何がモチベーションに?やっぱり絵が一番得意だったから。勉強なんて全くできなかったし。小さい頃はお正月に初詣に行くと「絵がうまく描けますように」とかって身勝手な願をかけていたりして。でも、それが実っちゃったのかな。
講談社から出ていた『テレビマガジン』っていう子供向けの雑誌に絵の投稿コーナーがあって、ハガキに絵を描いて送ったら採用されたんです。俺が 9 歳の時ですね。この『太陽にほえろ!』の萩原健一の絵が、メディアに載った俺のデビュー作