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Kosuke Okahara





プロフィールに「人の居場所を主なテーマに撮影を続けている」とありますが、「人の居場所」とは具体的にどういったものを指すのでしょうか?
これは正直なんとも難しいのですが、居場所というのはいろいろなことを表すことができます。物理的な居場所であったり精神的な居場所であったり、はたまた所属であったり。ただ、そのいずれもと考えると、自分の存在を肯定できたり、してもらえたり、「認識」ということにいきつくのかなと思います。
ウェブサイトで拝見する作品はどれもシリーズ作品ですが、それぞれのテーマやコンセプトはどのタイミングで考案するのですか?
どんなストーリーを撮ろうかといったことは撮影前に大まかには考えます。ただ、実際に撮影を始めるとドキュメントなので知らないことが出てくることも多々ありますし、そこがドキュメンタリー写真の醍醐味と言えるのではないでしょうか。
ひとつのプロジェクトを始動する際は、最終目的として写真集や写真展という形態を想定していますか?
写真集や展覧会は発表手段としてとても大事だと思っていますが、もっと違った手段があってもいいと思っています。作品によって落とし込むべきものというのは変わってくるのではないでしょうか。
無意識にも作品に滲み出る「自分らしさ」とはどのようなものでしょうか?
自分らしさを自分で理解しだすと結構危険だとは思いますが、写真を撮る時は多くを考えず、人やもの、風景など、その時撮影しているものの「存在」が写ればいいなと思って撮っています。
「存在」というのはつまり「それがその時そこにある」ということですか?
本当にそれだけですね。ただ、写真なので撮ればそこにあるものは写りますが、必ずしも真実が写っているわけではない。そこがすごく曖昧で、明確な言葉では表せないのですが、そういう曖昧なものだからこそ、手の届かないところに手を伸ばし続けるようにして撮れたらいいなと思っています。写真は所詮二次元のものですし、良くも悪くも表面的なもの。その反面、偶然というかマジックのようなものが起こる可能性のある媒体だと思います。手にできるとわかったうえで撮ると人工的なものになってしまい、マジックは起こらない。自分がいて、自分の目の前に自分と関わる世界がある。僕はただひたすらその表面を引っ掻き続けているような感じです。そうするとごく稀に、自分と自分の住む世界の関わりが写真に写る時がある。それはすごく確率の低い、不確定なものです。