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A Series as the Door:
Hypothetical Plants
Carolina Moscoso



Carolina Moscoso
Interview (2024)
 









はじめに、あなたのバックグラウンドやオリジンから聞かせてもらえますか。
私はポルトガルの北部にある小さな町の生まれです。家族もポルトガル出身ですが、ブラジルの血も少し入っています。幼い頃は田舎の自然に触れる機会に恵まれた環境で育ち、それが私の考え方や観点に大きな影響を与えました。当時はインターネットも携帯電話もない時代で、生活のペースも今とはかなり違っていました。物心ついた頃から絵を描くことや物づくりが大好きで、後になってデザインへの関心が高まっていることに気づきました。このことが故郷から離れた高校での修学を決心させ、後に建築学校を志望するきっかけになりました。そしてリスボンで建築を学び、2010年に NY へ移る直前までの12年間をリスボンで過ごし、現在は NY でフルタイムのグラフィックアーティストとして働いています。
幼い頃からアートやクリエイションが身近にある環境でしたか。現在のあなたの感性や制作アプローチに繋がる当時の出来事や思い出を教えてください。
ドローイングは私の一番の趣味で、静かな時間にいろいろなものを描いて楽しんでいたので、ある意味ではそうですね。幼い頃は多くの子供たちと同じように家具に模様を手描きしたり、寝室のワードローブを黒板代わりに使ったりしていました。キャラクターやファッション (ファッションデザイナーになりたかったこともあって) を題材にしたり、空想の家のインテリアのパース画、あとはランプ (奇妙なことに、なぜかランプに夢中だったんです) などを描いていました。
 その他にも、無関係と思われそうですが言及すべき思い出がいくつかあって、そのひとつは、兄弟や従兄弟たちと一緒にアクション映画を作ろうとしたこと。祖父母のホテルを舞台に Super 8 カメラを持ちプロさながらに廊下を歩き回って、私の役目はグランドフィナーレとしてロビーで死を演じることでした。そしてもうひとつは、 9 歳の頃だったか、私たち家族は近くの村に引っ越し、森に囲まれた家で暮らしていました。近くを探検していた時に山小屋を建てるのに適した場所を発見したので、従兄弟たちを集めてそれぞれの役割を分担することに。デザインが私の主な担当だったので、当時入手できた最も高機能なソフトウェアを使って正確なレイアウトを作成しました。驚くことにわざわざ窓のディテールまで設計して、プラスチック製のロールシェードを太いネジで取り付け、さらには内側に壁棚まで作ったのです。部品を持ち去るために無断で解体した人さえいなければ、この小屋は今でも残っていたと思います。
リスボンで建築を修学し、建築家としての経験を積んだそうですが、何がきっかけで建築への関心を深めていったのですか。
実際のところ、私は実家を離れてリスボンで建築を学び、そこで 2 年間ほど建築家として働きました。とはいえ、建築家としての経験の大半は NY で10年以上に渡って積んだものです。私はデザイン思考や問題解決に対する考え方を子供の頃からすでに持っていたように思います。想像上の空間や物体を物理的に具現化させることに興味があったので、明確なきっかけがあったわけでも、深く考えたわけでもなく、当然のように自分にとって建築こそが理想だと思ったのです。私が共感を抱いたのは、ドアノブから屋根に至るまで全てのものを描き設計するような建築家。そこには無限の可能性が秘められているように思えたし、それこそ私が理解し得る芸術的なメンタリティの在り方だと感じました。
 けれど振り返ってみると、私のストップモーションへの愛も関係していたのかもしれません。それは、一種の建築的なファンタジーを完璧に体現しているし、少なくとも建築空間と物語というファンタジーの世界との間に美しい共生を生みだしているからです。
その後、 NY へ移り住み、イラストレーターとしての活動を始めますが、その大きな転身を決意させたものは何でしたか。建築デザインでは表現できない何かをイラストレーションに見いだしたのでしょうか。
NY への移住はクリエイティヴのための決断でした。その時点で私はリスボンで建築家として 2 年間働いて、キャリアを歩み始めたばかりでしたが、行き詰まりを感じていて、絵を描くスキルを伸ばすためにもある程度の美術教育を求めていました。 NY の School of Visual Arts が興味深いサマー・レジデンスのプログラムを提供していたので、その中からイラストレーションとヴィジュアルストーリーテリングを選択して受講することに。授業が始まってすぐに自分がそれをどれほど必要としていたかを実感したし、プロのイラストレーションを追求する新たなフェーズが開かれました。とはいえ、たやすく実現できたわけではありません。 NY で建築家の仕事を再開して10年以上もキャリアを重ね、それと並行しながら地道に絵を描き続け、視覚的なボキャブラリーを発展させる術を探求していきました。この 2 つの異なる分野を追求した結果、ツールの面白いクロスオーバーを生み出しました。仕事におけるグラフィック・プレゼンテーションを個人的なスタイルの実践の場として捉え、それを表現するために AutoCAD などのツールを可能な限り活用するようになりました。 AutoCAD がどんなにテクニカルなツールだとしても、その特殊なコマンドとマウスジェスチャーによって興味深いワークフローを作り出し、その精度は、高校時代の幾何学の授業で完璧な線の太さにこだわっていた頃を思い出させるほどの満足感を与えてくれました。やがてこれらの探求の多くは、 2 つの世界が実際に融合した印象を強く主張する完全なインラストレーションになっていきました。この時期に、私は副業としてイラストレーションの案件を増やしていき、そして最近になって、時間だけでなく建築家としてのキャリアを進めるモチベーションも不足していることから、両立は難しいと自覚し、フルタイムでグラフィックアートを追求していくという明確な決断に至ったのです。
建築家としてのキャリアは現在の創作にどんな影響やアドバンテージをもたらしていますか。
実際的なことを言えば、建築家として働くには厳格な労働倫理を築く必要があります。特に NY では、プロジェクトが圧倒的に複雑で、大規模なチームとの長期間に及ぶ労働が求められます。また、大きなストレスを抱えて働きながらも、非常にクリエイティヴな仕事を提供しなければなりません。その経験のおかげで、イラストレーションの依頼に応える際の初期のクリエイティヴな負荷の克服に役立つ、体系的なワークフローの概念をしっかりと身に付けることができました。
 一方で概念的には、イラストの仕事においても私は依然としてデザイナーの立場で描いています。問題解決の意識によって操れる要素があり、「物事の仕組み」を理解する論理が特定の構造の形式性を押し進め、文脈や他の部分との関係を解決するということを理解しているからです。
緻密な線のタッチ、大胆な色彩使い、グラフィカルな表現など、あなたの作風にはいくつもの際立った特徴が見受けられます。線のタッチからは建築家としての背景が窺えますが、そうした特徴を総合した独自のスタイルはどういう実験を経て確立したのでしょうか。
客観的に捉えてみると、私は常に建築表現に親しみを求めてきたのだと思います。建築空間の日常性に魅力を感じ、ありふれたものを通じてその表現をいかにして架空的で詩的なものに変容させるかという点に惹かれました。初期の私のアプローチは、より素朴でアナログ的なもので、人物や物体の研究を個別に行なっていました。時間が経つにつれて、これらを建築的な言語に適応させるようになり、スタイルを明確にして、主題に主眼を向けるようになりました。この変遷は、物事の秩序を取り壊し、現実とフィクションの層を重ね合わせることで、空間という概念の中に新たな関係性やパターンを生む挑戦となりました。この過程において、私は劇場的な要素や日常的な言及の演出にますます興味を持ち始め、空間にズレを生じさせたり異質な物体を用いた実験を試みるようになりました。これらは視覚的なボキャブラリーの構築に成果をもたらす同時進行のプロセスと言えます。全体的な観点としては、観察と写真という 2 つが重要な過程で、細かく観察してみると、あらゆるものに詩的な可能性が秘められています。



(Left to Right)
Boudoir
House F
House G



プライベートワークでは部屋やその一角など私的空間を描いた作品が多く見られますが、こうした空間を題材にする際は、あらかじめその空間の住人や背景にあるストーリーを構想しますか。
その逆ですね。このプロセスにおける私の関心の矛先は、全体像から切り離された小さなスケールを起点に、空間の構築へとさらに踏み込んでいくことです。取り入れたい要素のアイデアがある時や、描いてみたいものがイラストレーションのきっかけとして役立つこともあるけれど、それは決して厳密なものではありません。事前に決められたストーリーではなく、小さな出来事の連続として展開していきます。



House Within a House
 
Three Lamps
 
The Man Who Took My Sunglasses
 

Domestic Interiors
 

Tropicália




インテリアを描いた作品の中では特に観葉植物が多く登場しています。植物の形や色は非常に有機的で、正確な直線や曲線を重視する建築デザインとは対照的に思えますが、それらの間に見いだす共通点は何でしょうか。
私が魅力を感じるのは自然界とその構造や色彩で、こうした作品ではそれを直接的に反映しています。硬直したものと有機的なものを並べて置く際、私は動きやメロディックなバランスを模索します。その形勢にはある種の詩的な要素があるように思います。





『Hypothetical Plants』シリーズは、さまざまな要素が混在するそれまでの作品とは異なり、その名のとおり単色を背景に仮想の植物が単体で描かれています。他の要素を排除して植物だけに絞り込むことで、これまでとは異なる何を表現しようとしたのですか。また、昨年春に発表した『Tea for Ten』は『Hypothetical Plants』と共通する気配を感じますが、何か関連があるのでしょうか。
『Hypothetical Plants』は、時間をかけて進化させた昔のプロジェクトから生まれたものです。当初はモデラーの Rhino で作成した実験的な 3D の花瓶と AutoCAD による 2D の植物を組み合わせたものでした。時間が経つにつれて植物自体への興味と共に、それらが奇妙なオブジェクトに変形する可能性に関心が向いていきました。そして最終的に『Tea for Ten』(Harlemにある友人のコンセプトストア「Moonlab42」で開催した展示) というプロジェクトに繋がったのです。このプロジェクトでは、植物の構造を少し複雑にしたバージョンを復活させて、「黄色い糸で繋がれた精巧なセンターピース」というアイデアから植物のオブジェクトをドラマティックに配置/演出して表現しました。



 
Tea for Ten
Solo Show at Moonlab42
2023



 そして『Tea for Ten』が終わると、私はフォーマットを縮小して、正方形のフレームに限られたパレットを使ったひとつの植物オブジェクトを描く実習を日課として始めることにしました。あえてルーティンを設けて、この興味あるボキャブラリーを発展させるために全てのディテールに宿る可能性を探求し尽くすことが目的です。これらのドローイングは短時間で描くのでとても直感的な仕上がりになります。どれだけ多くのバリエーションを見いだせるかという点に純粋な好奇心を抱いています。
『Hypothetical Plants』に登場する植物はひとつひとつに特徴や背景、名前があるのでしょうか。もしくは、思い浮かぶイメージを先行して描いているのですか。
そうですね。確かにヴィジュアルに焦点を置いています。だけど、動きを加えれば命が吹き込まれそうな感じもしますね。私はそれらを「植物オブジェクト(plant-objects)」と呼んでいて、頭の片隅ではランプを作るという昔の夢と結びつけています。この習慣的なドローイングの実習は、時に音楽への反応でもあって、例えば YMO を聴いている今、もしも植物オブジェクトを描いていたら、それは何らかの形で YMO と関連するものになるでしょう。音楽と Instagram のプロセスビデオを関連づけることは、そのコンセプトで遊ぶ面白い方法で、ある意味でコレオグラフィに近いものがあります。




Video quoted from @hypotheticalplants
You can appreciate the association of music to the process videos at the link above.








今後、この『Hypothetical Plants』シリーズにどんな発展が見込まれますか。
単なる継続的な実習であるというところが気に入っているので、毎日 1 つずつ作り続けることができれば、それで満足です。制約を設けて実験するこのシリーズは、自己発見の実習でもあります。もしこれらのオブジェクトが全体として意味を持つようになったとしたら、その時はランプのアイデアを検討しますね。






自己表現や創作を追求していく中で、本来の自分や作品の本質に立ち返ることにどんな意義があると思いますか?
「少ないほど豊かである(less is more)」という思考で捉えるようにしています。つまり、私自身が作品であり、限られた特性が私を個人として定義しているということです。私もあなたも、唯一でありながら限られた好奇心の世界を持っています。それが私たちそれぞれのツールボックスであり、それを受け入れることは謙虚さに繋がり、そして、それが自己発見の過程から得られたものであれば、それは誠実さに繋がります。そうした段階に立ち戻ることで作品との対話が生まれ、その対話の中で自身のアイデンティティや作品そのものを解明していくことになるのです。
周囲からの期待や社会の尺度にとらわれず、創作で素の自分を表現しようとする時、直面する挑戦はどんなものですか?
私には完璧主義的なところがあるので、失敗することへの恐れを克服して、ミスをもっと穏やかに受け入れることが個人的な挑戦です。それがプロセスにおいて重要な部分であり、時には美しい作品になり得るということも理解しています。
作品制作の過程で、自己やアイデンティティの変化や発展について考えることはありますか。それが作品にどのような影響を与えていますか。
私はよく自分と作品が対峙する場面に身を置いて、自分がどれほど作品に影響を与え、逆に自分がいかに作品から影響を受けているかについて考えを巡らせます。私はこれを建設的な分析として、また、作品を前進させるための個人的な挑戦として捉えています。外部からの圧力に反応するのではなく、私自身の内面的な探求です。個人と作品それぞれのアイデンティティは密接に関連していて、そこから逃れることはできません。そしてそれを、隠れた繋がりから生成されて徐々に形を成す、永遠に進化し続ける存在の構造であり枠組みとして視覚化しています。
創作に没頭して完全に  “素”  の状態になった時、どのような状態で何を考え、感じていますか。
私には思考が分離して空白になる傾向があって、それは過度に考えすぎてしまうことへの直接的な反応なのだと思っています。空白状態になっている時ほどドローイングと調和できるので、ギャップを埋めるために音楽のような要素を加えることがあります。そうした要素を並行して加えることで、思考とドローイングがより有機的で直感的に融合することができるのです。
最後に現在手がけているプロジェクトについて、また、今後の展望を教えてください。
最近はより複雑な構図に関心が向いていて、ゆっくりと時間をかけて作り上げるようなドローイングにも興味があります。あとは、しばらく停滞していたアナログ作業に再び取り組みたいと思っています。






















All images ©Carolina Moscoso