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Kosuke Okahara





被写体との距離感や関係性は意識しますか?
先にも話しましたが、基本的には受け入れられないと撮影できないと思っています。人からは距離が近い写真だとかいろいろと言われますが。僕のことを受け入れてくれない相手もいるわけで、そういう時は写真を撮れるような雰囲気になっていないのでしょう。そのため、人との距離が近い写真とかそういうことを言われるのだと思います。
個人を被写体として相手にしていると少なからず心が通うと思うのですが、撮影の際に客観性は考慮しますか?
客観性を考えて撮ってはいないですね。撮影をしているとやはり被写体と何かしらの関係性は生じますが、むしろ、それこそ面白いものだと思っています。その関係性が写真に現れてこそ作品にオリジナリティが生まれるのだろうし、それがなければ僕が撮る意味がない。いつだったか、知人の編集者に僕の写真は全て日の丸構図だと言われたことがあって、確かにそうだと思いました。また、僕の写真の中には大勢の人が写っていることが少ない。だいたい 1 人、多くても 3 人ぐらいです。それはすごく自分らしいと思います。僕自身が大勢で集まって賑わうことが得意でなく、 1 人か 2 人と話すのがちょうどいいので。
関係性という意味でも、個人的な事柄やストーリーのほうが焦点を合わせやすいのでしょうか?
大きな出来事にはあまり惹かれないですね。今までいくつかのストーリーを撮影したことはありますが、大きなニュースになるような規模の出来事は、僕のように個人でやっている人間が入り込んでどうにかなる世界ではない気がしますし。もちろんそういう場面で能力を発揮する写真家もいますが、僕の場合は、多くの人があまり関心を示さないようなことに興味がある。それは自分だから撮りたいと思うものであり、それが自分だから撮れる作品になるのだと思います。
これまでの作品を振り返った時、自身の作品の変遷をどのように捉えることができますか?
最初は写真を使う表現についてよくわからず、とにかくストーリーを追っていましたが、写真に対する理解が徐々に深まるにつれて、写真としてどういったことを表現したいのかということを考えるようになりました。でも、そういうことを考えるとそれはそれで頭の中であれこれ考えて撮るようになってしまうという罠に陥ることもあり、むしろいかに動物的に撮れるかということに向かっていきました。
では、シャッターを切る時は本能のまま、無心に近い状態なのでしょうか?
無心というよりは、その時その時をただ一生懸命になって撮るということです。そうでなければ生じない偶発性や、撮れない写真があると思います。でも、自分の写真への理解が深まっていくと「こういうふうに表現したい」という気持ちが出てきたり、自分の中でうまくいった写真があるとそれをまた真似しそうになる。そしてそれが「どうやったら撮れるのか」という考えに繋がり、すると写真はすごく人工的なものになってしまいます。つまり「どう撮る」ということではない。ただ邪心なく、変な期待を持たずに撮る。そうした中でも、先ほども話しましたが、「人の存在」に興味があるので、何かしら存在感のあるものが撮れればいいと、基本的にはそればかり考えて撮っています。
主にモノクロで取り組まれていますが、そこには理由があるのでしょうか?
撮影に行く前になんとなく毎回想像するのですが、なぜかモノクロでイメージが浮かんできてしまいます。ただ、頼まれる写真はカラーで撮ることがほとんどで、そのたびに色の力にはすごく魅力を感じます。