ジャーナルに「ある日、手描きの文字が突然、他人のもののように感じられた」と記されていて印象的だったのですが、あなたにとって “作者性作者性というものを固定的で本質的なものだとは捉えていません。自分の作ったものが、自分をよく表していると感じることもあれば、そうでないこともある。何かを書いたりデザインしても、ほどなくして「これは自分とは関係ない」と感じることもあります。そうした距離感もプロセスの一部だと受け入れるようになり、それを特に気にすることもありません。(オーサーシップ) ” とは、固定されたものですか、それとも流動的なものですか。
ジャーナルに書いたことはそのとおりで、自分の手描き文字を見返した時、それが自分のものだと認識できないことがあったんです。見た目だけのせいでなく、自分から生まれたものなのに、もう親しみを感じられないという感覚があって。しばしば起きることで、それをアイデンティティの喪失とは捉えていないし、むしろ、その瞬間の自分と作品の間に生じる一時的な距離感だと受け止めています。自分が生みだすすべてのものに自分自身を見いだす必要はないのだと、時が経つにつれて理解しました。
作品が、その文脈やその日の気配、あるいは自分でもまだ理解しきれていない何かに反応してかたちになることもある。だから私にとって、オーサーシップとは不安定なもの。立ち現れては薄れ、そして戻ってくるような。その動きのなかにもまた、何か意味があるのだと思っています。
最近、心の中に抱いている感覚や気づきはどんなものでしょうか。このところ、深い憂鬱に陥っています。季節
同時に、初めての本を作り終え、そのリリースを目前に控えているということも、この妙に落ち着かない状況の理由なのかも。おそらく「何かが完成した」と言わなければならない、その感覚。けれど本当のところ、自分でもはっきりとした理由はわかりません。もしこの “夢の日記” が本当に完成したのなら、そのまま受け入れるしかないでしょう。そうかもしれない……。でも、もし突然「もう見たくない」と思ったら? それは、ボタンひとつで消せるようなものではないのです。
最後に、今後の創作活動において探求したいことを教えてください。人形を作ってみたい気もするし、絵本かもしれない。まだはっきりとはわかりません。いまは、頭の中でたくさんのアイデアがぐるぐるしています。