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Hideki Inaba
Interview (2022)
 




稲葉さんのルーツから伺っていきたいのですが、出身はどちらですか?
静岡です。両親が伊豆の出身で、幼い頃から静岡内での引っ越しが多くて。大学は理工学部で、機械設備などの関係で最初の 2 年は九州、後半は神奈川と、若い頃はとにかく転々としていましたね。
どんな子供時代を過ごしたのでしょうか?
記憶にあるのは小学生の頃、休みになると祖父母の家へ行っては海や山、川など自然の中で遊んでいたこと。危ないからダメだと大人から言われても、子供は従うどころかその逆を行く。僕も例に漏れず、今思うと自然の中で結構危ない遊びをしていたんじゃないかな。
自然に囲まれて育ったのですね。
たまたまそういう環境だっただけで。一方で、当時全盛だった特撮ものやロボットアニメもかなり好きでした。「団結して敵を倒す」といった劇中のストーリーにはさほど興味はなかったけど、架空のテクノロジーを駆使したメカやロボット、そうした人工的なもののデザインやフォルムに強く惹かれていた。それが、田舎で過ごす当時の環境下で唯一触れることのできる人工的なクリエイションだったからかもしれない。そうしたロボットやメカのおもちゃは、自分と同じく機械工学や工業デザインを学んだ人たちが玩具メーカーに入り、本来は車や精密機械を設計・製造するための技術や知識を利用して作ったもので、子供に向けたファンタジーとして提供されていた。大人になってから関連資料を読んでその事実を知り、より興味をそそられました。
それが理工学部を専攻した理由に繋がるのでしょうか。当時は何かを目指していたのですか?
深層的な関係性はあると思うけど、明確に目指すものがあったわけではないし、工業高校に通っていたから大学進学するなら理工学部というのが自然な流れだった。高校から機械をいじって図面を描いて、大学でも同様で機械工学を専攻して精密機械の設計を学んだ。でも、それはバーチャルの図面であり設計だったから、実感には繋がらなかった。そうした中で常々思っていたのは「ただ設計するだけじゃなくて、そこにもう少しデザイン性や遊びの要素があれば面白いのに」ってこと。そのあたりからデザインやアートに関心を持ち始めたのかな。実際に現在では工学はアートやデザインと結びついていて、アルゴリズムやプログラミングに加えてデザイン性も求められるし、人のライフスタイルに合わせた設計が具体的になったよね。
グラフィックデザインというものを意識し始めたのはいつ頃ですか?
結構遅かったと思います。大学卒業後少ししてから文具メーカーに就職したけど、同時に、音楽やファッション、クラブに夢中になって、会社が終わるとすぐ遊びに行くような日々。まだインターネットも携帯もない時代で、そうした生活の中でフライヤーやポスターを多く目にしていたし、 CD ジャケットやマガジンのデザインも人目を引くものがあった。おそらくあの頃が DTM や DTP の草分けの時期で、クラブや音楽シーンでも、ファッションやマガジンも、全てのカルチャーシーンにグラフィックなるものが存在していた。コンピュータを使えるようになればデザイナーになれるんじゃないかと、当時はかなり高価だった PC を給料やボーナスの全てを注ぎ込み、借金までして買って、家でグラフィックを作り始めました。その頃はそんなふうにして音楽やグラフィックを作っている人が周囲には結構いましたね。
デザイナーとしてのキャリアはどのように始まったのですか?
その後転職したソフトウェアの会社は、高価なコンピュータや機材が使い放題という夢のような環境だった。キャリアもない自分をよく採用してくれたと思うけど、その割に遊んでばかりいる僕を見かねた上司から「最近インターネットというものがあるから、会社のウェブサイトを作ってみろ」と言われて。とはいえ、まだ HP を持っている企業は少なかったし途方に暮れて、相変わらずふらふらしていた。当時、アーティストの松の木タクヤさんがプロデュースした日本初のインターネットカフェ『Electronic Cafe』が渋谷の道玄坂にあって、テクノミュージックや VJ をガンガン流すようなかっこいい店だった。そこに出入りするうちに、イギリスの RCA といった海外の美大出身で、イベントのグラフィックや映像なんかを手掛けている人たちと仲良くなって。結局彼らが会社のウェブサイトも一緒に作ってくれて、僕が会社を辞めた後もグラフィックの案件をちょくちょく回してくれました。
彼らはクリエイティヴチームだったのですか?
いや、フリーランスの集まりのような、新しい環境を試行錯誤して作っていました。そのなかの中川 (敦之) さんという、今は TeamLab に在籍していて、当時は Sublime Records や Ken Ishii さんなどの VJ をやっていた人が、コンピュータグラフィックスのことや機材の使い方などをいろいろと教えてくれた。ある日、編集者の蜂賀(享) さんを紹介してくれて、彼は『Timing Zero』という世界中のグラフィックアーティストが作品を寄せた Zine のような冊子を作っていた。そこには dextro が寄稿していたりして、僕もその本を持っていたんだよね。そこでポートフォリオのようなものを持って会いに行ったら「『 +81 』という雑誌を創刊するから、何ページかデザインしてみる?」と。創刊号はヴィジュアルページをほんの数ページだけ担当したけど、エディトリアルデザインなんて初めてだったから「これじゃあ入稿できない」「このデータがおかしい」と相当ぶつぶつ言われましたね。それでも 2 号目以降も声が掛かって、気づけば相当なページ数を担当するように。結局そのまま11号まで続けました。