原人が人類に進化したと思われる温帯および熱帯地域における人類の主食は、植物であった。旧石器、新石器、そして有史前の時代に人間が食べていたものの六十五パーセントから八十パーセントは採集されたもので、最果ての北極地域でのみ肉が主食とされていたのである。マンモス狩りの人々の姿はほら穴の壁と頭の中を堂々と占有していたが、実際に人間が生命を維持し、丸々と肥えるためにしたことは、種、根っこ、芽、苗、木の葉、木の実、ベリー、果物、穀物を採集し、蛋白質を増加させるため、それに昆虫、軟体動物を加えたり、鳥、魚、ねずみ、うさぎやその他の牙のない小動物を網やわなにかけることだった。人間はそれさえもそう熱心にやったわけではない—農業の発達以降、他人の畑であくせく働く小作農たちよりはるかに楽であったし、文明開化以後の賃金労働者の仕事よりもはるかに楽であった。有史以前の平均的な人は、週に十五時間ほど働けば結構な暮らしができたのである。
生計をたてるために週十五時間ということは、他のことをするのにたっぷり時間が残ることになる。時間がありあまっているため、生活に活気を与えてくれるような赤ん坊がまわりにいなかったり、何かを製作したり、料理したり、歌ったりする技を持たなかったり、名案が浮かばないという落ち着きのない人々は、もしかしたら、こっそり逃げだして、マンモス狩りに行くことにしたのかもしれない。腕のいいハンターたちはそこで大量の肉、大量の象牙、それに物語を携え、よろめきながら帰ってきた。重要なのは肉ではなかった。物語のほうである。
私がどうやってカラスムギの種をひとつ、そのさやからもぎ取ったか、またひとつ、またもうひとつ、さらにもうひとつ、またまたもうひとつと、私がどうやってぶよにさされた跡をかいたか、そしてウウルがおかしなことを何か言って、私たちは入江に行って水を飲んで、しばらくイモリを眺めて、それからまた別の穀物畑を見つけた……なんてことを本当にワクワクさせるような物語として語るのは難しい。私はどうやって自分の槍を毛むくじゃらの巨大なわき腹に突き刺し、一方、ウウブはどうやって大きなカーブを描く牙を貫き、叫びながら身悶えしたか、血が四方八方に真紅の流れとなってほとばしったか、マンモスが倒れたときブーブが下敷になってゼリーのようにぴちゃんこになったか、そのとき私が寸分違わず目から脳天に矢を放ったか、なんて話とは比べものにならないし、到底かなうもではない。
後者の物語にはアクションばかりか、英雄が存在している。英雄は力強い。それと気づかぬうちに、カラスムギ畑の男や女、彼らの子供たち、製造者の技術や思慮深い人の考えや歌い手たちの歌はすべてそうした物語の一部を成し、英雄の物語の中で何らかの役割を強いられてきた。しかし、それは彼らの物語ではない。それは彼の物語なのである。
『三ギニー』として仕上がった本を考案中、ヴァージニア・ウルフはノートに「用語解説」という項を設けた。彼女は別の物語を語るために、新しい案に従って、英語を徹底的に作り直すことを考えていたのである。このグロッサリーの中の用語のひとつに英雄的素質があり、これは「ポツリヌス中毒」と定義されている。またウルフの辞書によると英雄は「びん」である。びんとしての英雄とは厳しい再評価である。
単なるジンやワインのボトルではなく、古い意味での一般的な容器、何か他のものを入れるものである。
もしそこに入れるべきものがなかったら、食料を保っておくことはできない—それがカラスムギのような闘争的でも資源に富んだものでないとしてもである。食料が手元にある間は、できるだけたくさん食料を腹につめ込むことができる。なんたってそれが第一の入れ物であるのだから。でも明朝になったらどうだろうか? 起きてみたら寒く、雨が降っている。自分で噛んだり、チビのウームをつかみ以上のムギを家に持ち帰れるだろうか? あなたは起きあがって、雨の中、濡れそぼったカラスムギ畑に出かけて行く。そのときあなたが両手でカラスムギを摘めるよう、赤ん坊ウーウーを入れられるものがあったらいいのではないだろうか? 木の葉 ヒョウタン 貝殻 網 かばん 吊り網 袋 びん 壺 箱 容器。ケース。受皿。
このようにエリザベス・フィッシャーは『女の創造』 ( Women’s Creation マグロウ・ヒル、一九七五)の中で述べている。しかし、それは違う、あり得ないことである。あの素晴らしい、大きくて、長くて、堅いもの、骨だと思うのだが、あれはどこにあるのだろう? 映画の中で猿人が誰かを最初に強打したあの道具のことである。その後で猿人は初めて殺人を立派に成し遂げた恍惚感に唸り声を上げ、それを空中にほうり投げた。空中を旋回しながらそれは宇宙への道を突き進む宇宙船となり、受胎させ、映画の結末では可愛らしい退治を出産するのである。退治はもちろん男の子で(ひどくおかしなことだが)子宮も母体も全く存在しないまま天の川のまわりを漂っている。私にはわけがわからない。かまうものか。物語を語っているのは私ではないのだ。私たちは物語の聞き手であった。私たちは棒だの槍だの剣について、強打したり、突いたり、殴ったりするもの、長くて堅いものについてありとあらゆることを耳にした。けれども物を入れるべきもの、入れるべきものを保つ容器についての話は聞いたことがなかった。それは新しい物語である。まさにニュースである。
それでいながらその物語は古くもある。以前—考えてみると確かにずっと以前に—武器や近頃の贅沢で不必要な道具よりも、実用的なナイフや斧よりもはるか以前に、なくてはならない杖とか粉砕機とか掘削具とともにそれは存在していた—だって、もし家で食べきれないじゃがいもを引きずっていくものがなかったら、何のためにたくさんのじゃがいもを掘るのだろうか—エネルギーを外部に押し進める道具と共に、あるいはそれ以前に、私たちはエネルギーを家の中にもたらす道具を作ったのである。これなら私も納得できる。私はフィッシャーが人間の進化に関するずだ袋理論と称するものの信奉者である。
この理論は広範囲にわたる理論的な曖昧さについて説明してくれるばかりか、広範囲にわたる(トラやキツネやその他のなわばり意識の強い哺乳動物が占めている)理論的ナンセンスが生じるのを防いでいる。これはまた私個人に関して言うと、これまで私が感じたことのなかったような方法で私を人間の文化に根づかせてくれる。文化が突き刺したり、強打したり、殺したりするための長くて堅いものから生じ、それをもとに練りあげられたものとして説明される限り、私は特にそのような文化を共有したとも、したいとも決して思わなかった。(「 フロイトが女には文明が欠如していると誤解していたものは実は、女性には文明に対する忠誠心が欠如していたのである」とリリアン・スミスは述べた。 ) 彼ら、理論化たちが議論していた社会、文明は明らかに彼らのものであった。彼らがそれを所有し、好んでいた。彼らは人間であった。強打したり、突いたり、刺したり、殺したりする紛れもない人間であった。私も人間でありたいと思って、自分は人間である、という証拠を探し求めた。だが、それには武器を作ったり、それを用いて殺したりすることが必要だというのなら、私はどうしようもない欠陥人間であるか、全く人間でないかのどちらかであった。
その通り、と彼らは言った。おまえの存在は女である。ひょっとしたら全く人間ではないのかもしれない、欠陥のあることは確かである。さて、われわれが人間の向上の物語、英雄の物語を語っている間は静粛にしたまえ。
吊りひもに入れたウーウーと、籠を持っている小さなウームと一緒にカラスムギ畑の方に向かってさまよいつづけなさい、と私は言う。あなたがたはいかにしてマンモスがブーブの上に倒れかかったか、いかにしてカインがアベルの上に倒れ落ちたか、いかにして原爆が長崎に落ちたか、いかにして火を吹いているダイナマイトが村人の上に落ちたか、いかにしてミサイルが悪の帝国の上に落ちることになるか、その他、人間の向上におけるあらゆる歩みについてひたすら語りつづける。
自分の望むものを、それが役立つからとか、食用に適するとか、美しいという理由で、袋や、籠や、丸めた樹皮や木の葉のかけらや、自分の髪の毛で編んだ網やその他のものに入れ、それをこれまたより大きな一種の袋物やかばんである家、人間を入れる容器である家へ持ち帰り、その後、それを取り出し、分け合い、冬に向けて頑丈な容器に貯蔵したり、薬袋や神社や、博物館や、聖なる場所、神聖なものを保存する場所に収め、そして翌日になるとたぶんまた同じようなことを繰り返すこと—もしそうしたことをするのが人間的であるというなら、人間であるにはそうしたことが必要であるというなら、私はなんといっても人間である。初めて完全で、自由で、喜ばしい人間になるのである。
だからといって即座にそれが非攻撃的とか非闘争的な人間であるといってはならない。私は自分のハンドバッグを振りまわして激しく攻撃し、チンピラを撃退するような怒れるおばさんである。しかしながら、私がそのようなことをしたからといって、私自身も、また他の誰も私が英雄的であるとは思わない。それは、カラスムギの収穫や物語を語りつづけることを可能にするためにしなくてはならない、いまいましいことのひとつにすぎない。
相違の生じるもとは物語である。私の人間性を私の目から隠してしまったのは物語である。マンモス狩りの人々が強打したり、突き刺したり、略奪したり、殺したりすることについて、英雄について語った物語である。ポツリヌス中毒に関する素晴らしい、有毒な物語。殺し屋の話である。
時々、その物語は結末に近づきつつあるのではないかと思われることがある。物語が全く尽きてしまうといけないので、ここ、カラスムギ畑の中、遠く離れたトウモロコシの間にいる私たちのなかには、自分たちが別の物語を話しはじめたらよいのではないかと考えるものもいる。古い話が終わったとき、人々がもしかしたらつづけられるかもしれない物語を。たぶん。ただ問題は、私たち自身がすでに殺し屋の物語の一部になることを許してしまっていたのである。だから私たちもその物語とともに集結してしまうかもしれないという点である。よって私は確かな緊迫感に駆られて、もうひとつの物語、語られていない物語、人生の物語の本質を、主題を、言葉を求めるのである。
そうした物語は殺し屋の物語のようにはよく知られていないし、簡単に、勝手に口をついて出てくるものではないが、それにしても「語られていない」というのは誇張である。人々はこれまでも何年にもわたって、あらゆる種類の言葉と手法を用いて人生の物語を語ってきた。創造や変換に関する神話や、トリックスター物語、民話、ジョーク、小説……。
小説は基本的には非英雄的な物語である。もちろん英雄はしばしば非英雄的な物語に取って代わることも多かった。英雄は殺したいという抑えがたい衝動を統制するため厳格な法規や法律を作る一方で、すべてを乗っ取り、支配したいという英雄的な尊大な性質と抑制しがたい衝動を有するからである。英雄は代弁者を通して立法者に次のような法令を定めさせた。まず第一に、物語の正しい形は矢や槍の形を取り、ここではじまりあそこまでまっしぐらに進み、バシッと見事に的中(敵はバッタリ倒れて即死) 、第二に、小説を含む物語の主要な関心は争いである。第三に、英雄が存在しない物語はちっとも役に立たない。
私はこれらの法令のいずれとも意見を異にする。私は小説の自然で、正しい、ふさわしい形は袋物、かばんの形であるかもしれないとまで言い切りたい。本は言葉を保っている。言葉はものを保つものである。言葉は意味を負っている。小説はものをお互い同士の、そして私たちとの特別な強力な関係の中で保つ薬袋なのである。
小説における様々な要素のひとつの関係が争いという関係であるといえよう。だが物語は争いを表すと言いきってしまうことは馬鹿げている。(「 物語はひとつの戦いと見做されるべきである」と説き、戦略や攻撃や勝利といったことについて延々と説明している文章修業の手引を私は読んだことがある。 )ずだ袋/胃袋/箱/家/薬袋として表される小説中の争い、競争、強制、闘争などは、その小説全体としては争いとか調和といった言葉では表すことができないような作品の必然的な要素として考えられるかもしれない。小説自体の目的は解決でも平衡状態でもなく継続していくプロセスなのである。
最後になったが、この袋の中の英雄が見映えのしないことは明らかである。彼には舞台とか台座とか頂上が必要なのである。英雄を袋に入れてしまうと、彼はウサギかじゃがいもみたいに見える。
だからこそ私は小説が好きなのだ—そこには英雄のかわりに人々が存在している。
そこで、私は自分でサイエンス・フィクションを書くようになったとき、その大きくてずっしりと重い麻袋を引きずってやってきたのである。私のずだ袋には弱虫やうすのろ、カラシナの種子よりももっと小さな粒々がたくさん入っている。複雑に編み込んだ網の結び目を念入りにほどくと、そこには青い小石がひとつ、別世界での時間を告げる冷静に機能するクロノメーター、そしてネズミの頭蓋骨がある。私の袋は終わりのない始まり、イニシエーション、損失、変身や変形、争いよりも数多くのトリック、落とし穴や妄想よりも数少ない勝利でいっぱい、立ち往生してしまう宇宙船、失敗に終わる任務、理解力のない人々でいっぱいなのである。私たちがどうやってカラスムギをさやからもぎ取るかといった内容の心ときめく物語を作るのは難しい、と私は言ったが、不可能であるとは言わなかった。そもそも小説を書くのは容易いなどと誰が言ったのであろう?
もしサイエンス・フィクションが近代テクノロジーの神話学であるのなら、その神話は悲劇的なものである。「テクノロジー」とか「近代科学」( ここではこの言葉を通常使われているように、永続的な経済成長に基づいた「ハード」サイエンスおよびハイ・テクノロジーを表す速記法として吟味せずに使用している)は勝利として、それゆえ結局は悲劇として考案された英雄的事業である。しかもそれは超人的であり、きわめて独創的なものである。こうした神話を体現している小説はこれまで、そして今後も勝利に満ちたものであり(人間が大地を、宇宙を、異星人を、死を、未来などを制服したりする) 、また悲劇的である(過去あるいは現在の、終末論であり大虐殺である) 。
もし私たちが技術英雄主義の一直線に前進する(殺人的な)時の矢のような流儀を避け、テクノロジーおよび科学を支配のための武器としてよりも第一に文化的ずだ袋として再定義するなら、その喜ばしい副作用として、サイエンス・フィクションは硬直した偏狭な分野であるという印象がかなり拭い去られ、必ずしも超人的でも終末的でも全くなく、それどころか、リアリスティックな小説よりも神話的な要素の薄いジャンルであると見做されることになり得るだろう。
それは奇妙なリアリズムであるが、それは奇妙な現実である。
サイエンス・フィクションはたとえどんなに妙であろうと、すべての純文学と同様、適切な表現をされたものであれば、実際に何が進行しているのか、人々は現実に何を考え、感じているのか、人々はこの巨大な麻袋の中で、宇宙というこの胃袋の中で、これからものとなるべき存在を生みだす子宮やかつて存在していたものの墓の中で、この終わりのない物語の中でありとあらゆる他者とどのように関連しているのか、といったことを描写しようとする手段である。そのようなサイエンス・フィクションにはすべてのフィクションと同様、人間をも事物の体系の中のそのあるべき場所に入れておく余裕がある。そこには多量のカラスムギを収穫し、種子まきまでする時間が、小さなウームに歌を歌ってやり、ウールのジョークに耳を傾け、イモリを眺める時間もある。それでもまだ物語は終わっていない。依然として収穫すべき種子もあるし、お星様の袋の中には余裕もある。
生計をたてるために週十五時間ということは、他のことをするのにたっぷり時間が残ることになる。時間がありあまっているため、生活に活気を与えてくれるような赤ん坊がまわりにいなかったり、何かを製作したり、料理したり、歌ったりする技を持たなかったり、名案が浮かばないという落ち着きのない人々は、もしかしたら、こっそり逃げだして、マンモス狩りに行くことにしたのかもしれない。腕のいいハンターたちはそこで大量の肉、大量の象牙、それに物語を携え、よろめきながら帰ってきた。重要なのは肉ではなかった。物語のほうである。
私がどうやってカラスムギの種をひとつ、そのさやからもぎ取ったか、またひとつ、またもうひとつ、さらにもうひとつ、またまたもうひとつと、私がどうやってぶよにさされた跡をかいたか、そしてウウルがおかしなことを何か言って、私たちは入江に行って水を飲んで、しばらくイモリを眺めて、それからまた別の穀物畑を見つけた……なんてことを本当にワクワクさせるような物語として語るのは難しい。私はどうやって自分の槍を毛むくじゃらの巨大なわき腹に突き刺し、一方、ウウブはどうやって大きなカーブを描く牙を貫き、叫びながら身悶えしたか、血が四方八方に真紅の流れとなってほとばしったか、マンモスが倒れたときブーブが下敷になってゼリーのようにぴちゃんこになったか、そのとき私が寸分違わず目から脳天に矢を放ったか、なんて話とは比べものにならないし、到底かなうもではない。
後者の物語にはアクションばかりか、英雄が存在している。英雄は力強い。それと気づかぬうちに、カラスムギ畑の男や女、彼らの子供たち、製造者の技術や思慮深い人の考えや歌い手たちの歌はすべてそうした物語の一部を成し、英雄の物語の中で何らかの役割を強いられてきた。しかし、それは彼らの物語ではない。それは彼の物語なのである。
『三ギニー』として仕上がった本を考案中、ヴァージニア・ウルフはノートに「用語解説」という項を設けた。彼女は別の物語を語るために、新しい案に従って、英語を徹底的に作り直すことを考えていたのである。このグロッサリーの中の用語のひとつに英雄的素質があり、これは「ポツリヌス中毒」と定義されている。またウルフの辞書によると英雄は「びん」である。びんとしての英雄とは厳しい再評価である。
単なるジンやワインのボトルではなく、古い意味での一般的な容器、何か他のものを入れるものである。
もしそこに入れるべきものがなかったら、食料を保っておくことはできない—それがカラスムギのような闘争的でも資源に富んだものでないとしてもである。食料が手元にある間は、できるだけたくさん食料を腹につめ込むことができる。なんたってそれが第一の入れ物であるのだから。でも明朝になったらどうだろうか? 起きてみたら寒く、雨が降っている。自分で噛んだり、チビのウームをつかみ以上のムギを家に持ち帰れるだろうか? あなたは起きあがって、雨の中、濡れそぼったカラスムギ畑に出かけて行く。そのときあなたが両手でカラスムギを摘めるよう、赤ん坊ウーウーを入れられるものがあったらいいのではないだろうか? 木の葉 ヒョウタン 貝殻 網 かばん 吊り網 袋 びん 壺 箱 容器。ケース。受皿。
おそらく文化が生み出した最初の装置は容器であろう……。多くの理論化は、最も初期の文化的発明品は採集した物を保つための入れ物や釣り網や網カゴであったに違いないと考えている。
このようにエリザベス・フィッシャーは『女の創造
それでいながらその物語は古くもある。以前—考えてみると確かにずっと以前に—武器や近頃の贅沢で不必要な道具よりも、実用的なナイフや斧よりもはるか以前に、なくてはならない杖とか粉砕機とか掘削具とともにそれは存在していた—だって、もし家で食べきれないじゃがいもを引きずっていくものがなかったら、何のためにたくさんのじゃがいもを掘るのだろうか—エネルギーを外部に押し進める道具と共に、あるいはそれ以前に、私たちはエネルギーを家の中にもたらす道具を作ったのである。これなら私も納得できる。私はフィッシャーが人間の進化に関するずだ袋理論と称するものの信奉者である。
この理論は広範囲にわたる理論的な曖昧さについて説明してくれるばかりか、広範囲にわたる(トラやキツネやその他のなわばり意識の強い哺乳動物が占めている)理論的ナンセンスが生じるのを防いでいる。これはまた私個人に関して言うと、これまで私が感じたことのなかったような方法で私を人間の文化に根づかせてくれる。文化が突き刺したり、強打したり、殺したりするための長くて堅いものから生じ、それをもとに練りあげられたものとして説明される限り、私は特にそのような文化を共有したとも、したいとも決して思わなかった。
その通り、と彼らは言った。おまえの存在は女である。ひょっとしたら全く人間ではないのかもしれない、欠陥のあることは確かである。さて、われわれが人間の向上の物語、英雄の物語を語っている間は静粛にしたまえ。
吊りひもに入れたウーウーと、籠を持っている小さなウームと一緒にカラスムギ畑の方に向かってさまよいつづけなさい、と私は言う。あなたがたはいかにしてマンモスがブーブの上に倒れかかったか、いかにしてカインがアベルの上に倒れ落ちたか、いかにして原爆が長崎に落ちたか、いかにして火を吹いているダイナマイトが村人の上に落ちたか、いかにしてミサイルが悪の帝国の上に落ちることになるか、その他、人間の向上におけるあらゆる歩みについてひたすら語りつづける。
自分の望むものを、それが役立つからとか、食用に適するとか、美しいという理由で、袋や、籠や、丸めた樹皮や木の葉のかけらや、自分の髪の毛で編んだ網やその他のものに入れ、それをこれまたより大きな一種の袋物やかばんである家、人間を入れる容器である家へ持ち帰り、その後、それを取り出し、分け合い、冬に向けて頑丈な容器に貯蔵したり、薬袋や神社や、博物館や、聖なる場所、神聖なものを保存する場所に収め、そして翌日になるとたぶんまた同じようなことを繰り返すこと—もしそうしたことをするのが人間的であるというなら、人間であるにはそうしたことが必要であるというなら、私はなんといっても人間である。初めて完全で、自由で、喜ばしい人間になるのである。
だからといって即座にそれが非攻撃的とか非闘争的な人間であるといってはならない。私は自分のハンドバッグを振りまわして激しく攻撃し、チンピラを撃退するような怒れるおばさんである。しかしながら、私がそのようなことをしたからといって、私自身も、また他の誰も私が英雄的であるとは思わない。それは、カラスムギの収穫や物語を語りつづけることを可能にするためにしなくてはならない、いまいましいことのひとつにすぎない。
相違の生じるもとは物語である。私の人間性を私の目から隠してしまったのは物語である。マンモス狩りの人々が強打したり、突き刺したり、略奪したり、殺したりすることについて、英雄について語った物語である。ポツリヌス中毒に関する素晴らしい、有毒な物語。殺し屋の話である。
時々、その物語は結末に近づきつつあるのではないかと思われることがある。物語が全く尽きてしまうといけないので、ここ、カラスムギ畑の中、遠く離れたトウモロコシの間にいる私たちのなかには、自分たちが別の物語を話しはじめたらよいのではないかと考えるものもいる。古い話が終わったとき、人々がもしかしたらつづけられるかもしれない物語を。たぶん。ただ問題は、私たち自身がすでに殺し屋の物語の一部になることを許してしまっていたのである。だから私たちもその物語とともに集結してしまうかもしれないという点である。よって私は確かな緊迫感に駆られて、もうひとつの物語、語られていない物語、人生の物語の本質を、主題を、言葉を求めるのである。
そうした物語は殺し屋の物語のようにはよく知られていないし、簡単に、勝手に口をついて出てくるものではないが、それにしても「語られていない」というのは誇張である。人々はこれまでも何年にもわたって、あらゆる種類の言葉と手法を用いて人生の物語を語ってきた。創造や変換に関する神話や、トリックスター物語、民話、ジョーク、小説……。
小説は基本的には非英雄的な物語である。もちろん英雄はしばしば非英雄的な物語に取って代わることも多かった。英雄は殺したいという抑えがたい衝動を統制するため厳格な法規や法律を作る一方で、すべてを乗っ取り、支配したいという英雄的な尊大な性質と抑制しがたい衝動を有するからである。英雄は代弁者を通して立法者に次のような法令を定めさせた。まず第一に、物語の正しい形は矢や槍の形を取り、ここではじまりあそこまでまっしぐらに進み、バシッと見事に的中(敵はバッタリ倒れて即死
私はこれらの法令のいずれとも意見を異にする。私は小説の自然で、正しい、ふさわしい形は袋物、かばんの形であるかもしれないとまで言い切りたい。本は言葉を保っている。言葉はものを保つものである。言葉は意味を負っている。小説はものをお互い同士の、そして私たちとの特別な強力な関係の中で保つ薬袋なのである。
小説における様々な要素のひとつの関係が争いという関係であるといえよう。だが物語は争いを表すと言いきってしまうことは馬鹿げている。
最後になったが、この袋の中の英雄が見映えのしないことは明らかである。彼には舞台とか台座とか頂上が必要なのである。英雄を袋に入れてしまうと、彼はウサギかじゃがいもみたいに見える。
だからこそ私は小説が好きなのだ—そこには英雄のかわりに人々が存在している。
そこで、私は自分でサイエンス・フィクションを書くようになったとき、その大きくてずっしりと重い麻袋を引きずってやってきたのである。私のずだ袋には弱虫やうすのろ、カラシナの種子よりももっと小さな粒々がたくさん入っている。複雑に編み込んだ網の結び目を念入りにほどくと、そこには青い小石がひとつ、別世界での時間を告げる冷静に機能するクロノメーター、そしてネズミの頭蓋骨がある。私の袋は終わりのない始まり、イニシエーション、損失、変身や変形、争いよりも数多くのトリック、落とし穴や妄想よりも数少ない勝利でいっぱい、立ち往生してしまう宇宙船、失敗に終わる任務、理解力のない人々でいっぱいなのである。私たちがどうやってカラスムギをさやからもぎ取るかといった内容の心ときめく物語を作るのは難しい、と私は言ったが、不可能であるとは言わなかった。そもそも小説を書くのは容易いなどと誰が言ったのであろう?
もしサイエンス・フィクションが近代テクノロジーの神話学であるのなら、その神話は悲劇的なものである。「テクノロジー」とか「近代科学
もし私たちが技術英雄主義の一直線に前進する(殺人的な)時の矢のような流儀を避け、テクノロジーおよび科学を支配のための武器としてよりも第一に文化的ずだ袋として再定義するなら、その喜ばしい副作用として、サイエンス・フィクションは硬直した偏狭な分野であるという印象がかなり拭い去られ、必ずしも超人的でも終末的でも全くなく、それどころか、リアリスティックな小説よりも神話的な要素の薄いジャンルであると見做されることになり得るだろう。
それは奇妙なリアリズムであるが、それは奇妙な現実である。
サイエンス・フィクションはたとえどんなに妙であろうと、すべての純文学と同様、適切な表現をされたものであれば、実際に何が進行しているのか、人々は現実に何を考え、感じているのか、人々はこの巨大な麻袋の中で、宇宙というこの胃袋の中で、これからものとなるべき存在を生みだす子宮やかつて存在していたものの墓の中で、この終わりのない物語の中でありとあらゆる他者とどのように関連しているのか、といったことを描写しようとする手段である。そのようなサイエンス・フィクションにはすべてのフィクションと同様、人間をも事物の体系の中のそのあるべき場所に入れておく余裕がある。そこには多量のカラスムギを収穫し、種子まきまでする時間が、小さなウームに歌を歌ってやり、ウールのジョークに耳を傾け、イモリを眺める時間もある。それでもまだ物語は終わっていない。依然として収穫すべき種子もあるし、お星様の袋の中には余裕もある。
(一九八六年)