シンセサイザーをはじめ、レコードや写真などもデジタル化やその技術が発展する一方で、一部ではアナログ回帰する傾向も見られます。この潮流について見解を聞かせてください。ポラロイドやレコード、モジュラーシンセサイザーといった消費者のトレンドについて、もしくは、デジタルシミュレーションがそれらを十分に模倣しているかどうか、そうした議論は可能でしょう。しかし、この問題は別の次元で取り上げることもできると思います。「我々はできるだけスキャンされない存在になるべき」と以前から主張している Parl Kristian Bjørn Vester
物質的な楽器とのインタラクションは複雑なプロセスであり、それを物理的なジェスチャーの測定や音の出力の記録にまとめられると考えるのは、あまりに愚かです。さらに言えば、例えば演奏者の脳に電極を埋め込み、即興演奏に関わる豊かな思考プロセスの一部始終を捉えることができたとしても、それを測定したりシミュレーションすることで、誰かの生活がより良くなるでしょうか。アーティストの創造的労働に対する相応の支払いを必死に避け続けている Spotify のような搾取型資本主義の企業にとっては、ビジネスがより有益になるかもしれませんが。“知性的” な人工の音楽家は、ストライキを起こすこともなく、電気代さえ払い続ければ音楽を提供してくれるでしょう。要するに、デジタル化が搾取型資本主義を助長するのであれば、少なくとも我々の倫理が技術に追いつくまでは、デジタル化から守るべきものがあるはずだと思うのです。そして、そんな状況に私は疑問を感じています。我々のできることが、我々がすべきこととは限らないからです。
さきほどの発言と矛盾するように聞こえるでしょうが、テクノミュージックは Roland という電子音楽会社によってすでに作られていたのかもしれません。しかし、それもまたアウトプットに固執した場合にのみ言えることです。私の作った Benjolin のユーザーは、単に聴いたり、見たり、完成品を消費するだけでなく、それ以上に、“音” に参加しているように思います。彼らは、それがアートなのか、音楽なのか、製品なのかといったことにはこだわらず、そこからもたらされる音の可能性と有意義な形でインタラクションすることに Benjolin を使っているのです。最高の瞬間がユーザーに訪れた時、彼らは自分自身やエゴの感覚を一切失ってしまうことさえあるでしょう。
さきほど独学について伺いましたが、現在はスウェーデンの KTH 王立工科大学でメディア&インタラクションデザインの博士課程に在籍しています。改めて専門分野の教育を受けるに至った経緯を教えてください。スウェーデンに辿り着いた経緯は実にシンプルです。2020年の初め、演奏家や講師としての仕事が瞬時になくなってしまったので、パンデミックが収束するまでは誰もが節約するだろうし、楽器の制作依頼も尽きるものだと思っていました。しかし実際には、家で退屈を持て余した人々はインターネットでいろいろと注文をするようになり、私にも突然多くのオーダーが寄せられました。ところが、一日中ひとりで回路のハンダ付けや木箱に穴を開けたりしているうちに、徐々に落ち着かなくなってしまった。他の人々と同じく、私も刺激や人との触れ合いを必要としていたのです。
ちょうどその頃、王立工科大学
とはいえ、事務職にはまだ慣れません。また、自分の時間や精神的な集中力を要求されるので、セルフケアについて多くを学びました。そして、オフィスでの仕事とは対照的に、古い楽器を調査するためにミュージアムのアーカイヴへ出向くことも多いですね。特に、1986年にスウェーデンの作曲家 Ralph Lundsten のために Erkki Kurenniemi が設計した Andromatic という楽器を調べています。これは極めて未来的に想像された楽器で、内部の電子回路が見えるようケースには透明のプレキシガラスが採用され、さらに、インスタレーションで照明をコントロールするためのプラグインも搭載されています。 Kurenniemi は Ralph に「自動ポップミュージックマシンを作っている」と伝えたらしいのですが、昨今のいわゆる AI ツールに期待されるものとさほど違いはありません。
将来に向けたヴィジョンを教えてください。未来のヴィジョン、特に、過去にあった未来像は興味深いですよね。 Kurenniemi はとても面白い未来像を抱いていました。例えば、彼はオーディオやビデオテープ、酔った勢いで書いた日記や性的な妄想など、自分の生活のありふれた細部まで執拗に記録していて、彼の望みは、2049年にこうした全てのメモ書きから AI として再構築され、他の AI と共にゴルフボール大の宇宙船に収容されて銀河系を無限に漂うことでした。現在の用語で言えば、彼はトランス・ヒューマニストと呼ばれる存在だったのかもしれません。 Elon Musk のように、彼はいつの日か人間は技術によって自然を超越し、自然に対して与えた危機を克服し、おそらく別世界へ旅立つ、そのプロセスが繰り返されると信じていました。けれど、自動詩的楽器という彼の発想は、20世紀半ばの人工頭脳学の言説に強く根ざしています。彼のサウンドテクノロジーは、自律的なクローズドループのシステムとして考えられており、内部からのフィードバックによって一種のホメオスタシスに達し、そこから音楽的パターンが生みだされます。
最近私はポスト・ヒューマニズムについて多くの文献を読んでいます。とりわけ、人間はもはや、自然やテクノロジーなど人間以外の世界から切り離され、互いに分断された自律的で自己形成的な主体であると捉えることはできない、ということについてです。1960年代のヒッピー的ユートピアが衰えた後、ユートピア的な未来は、1970年代から80年代の過剰消費によってかなり時代遅れのものになりました。どういうわけか我々は物事がどれほど悪化するかを想像したがり、また、気候変動などの問題をめぐる現在の考え方は、多くの人がしがみついているシニシズムと無関心を物語っています。しかし、もしもユートピア的な未来を考えることが私に許されるなら、それは、我々が自己の感覚を維持し、他の全てから富を抽出するために使っている自律したはずの小さな箱がひっくり返されて、それぞれの繋がりが示される未来かもしれません。芸術だけで社会が変わるなんて信じていませんが、芸術が話を語り、それが文化的な物語となり、そして最終的に社会を変えることができると思っています。だから今、私は、金属やプラスチックの密閉された箱の中に隠れるのではなく、ため息や咳や汗や呼吸をし、周囲のものと流動的に混ざり合い、おそらく最後は朽ちて地球に戻る、分解されたインサイドアウトのシンセサイザーを想像しようとしているのです。そして、このようなインサイドアウトのシンセが、新しい生き方、やり方、作り方、在り方を指し示す可能性があるのかを考察しています。