2022 SS「Pause≒Play」のショーを映像で拝見して、洋服を作るだけでなく、音楽や演出など全てのディテールが一体となったあの “ショー” の世界までも作りだすのだと圧巻されました。半年に一度のペースであそこまでのことをやり抜くには、時間だけでなく体力も想像力も足りなくなるのではないかと凡人の私は思ってしまいますが、普通にできるものですか?
できるものです。できるからこそ皆さんやられているわけです。それが我々の仕事ですし、やって当たり前のことです。
洋服をデザインすることとショーを作りだすことは、宮下さんにとって渾然一体なのでしょうか?
ショーがあるほうが全ては作りやすいですね。洋服のみを抽出して展示会だけやるという形式のほうが僕にはよっぽど難しい。僕の場合「こういう感じの洋服を作ろう」という考えから始まるわけではないですから。
では、何から始まるのでしょうか?
何かの音が鳴り始めたり、誰かの顔やシルエットが浮かび上がってきたり、そういうイメージのようなものがほとんどです。
そのイメージがコレクションのテーマやコンセプトに繋がっていくのですか?
それに近づくのでしょうね。けれど、そのままの形にはならない。完全に思い描いたイメージどおりのもの、完璧だと思えるものが作れたとしたら僕はそこでやめるでしょうけれど、それは一生できないのだと思います。ただ、そのイメージというか、 “残像” というと言葉としてはおかしいけれど、その残像のようなものは早い段階からはっきりと見えています。最初は明確だったそれが、制作を続けるうちに輪郭がぼやけてどんどん不透明になっていく。再びピントが合うまでに数ヶ月かかることもあって、それまでが辛い作業です。仮縫いの時期なんて大抵ピントが全く合っていない状態なので、「何かが違う」と悶える日々。けれど、直前になるとピントの合う瞬間が訪れる。それは本当に一瞬の出来事なので、その瞬間を逃さず、畳み込むように一気に仕上げていくという感じです。
最初にその残像が見えて、実際に新たなコレクションに着手する際は何から始めるのですか?
ひとつが終わったから、じゃあ明日から次のことをやろうと切り替えて単純にできる仕事ではないので、終わった瞬間には次とその次のシーズンのことは頭の中で考えていないとなりません。常に次以降の先のことまで考えています。
では、それぞれのシーズンは区切られているというよりも繋がっている感じでしょうか?
伏線は張っているつもりです。ただ、それは誰にも気づかれないと思います。例えば、あるひとつのテクニックをやり切ったと確信できれば、次はもうこんな幼稚なことはやらないと結論づけて片づけられますが、そうはいかないものが続いている。それは僕にとっての伏線というか、ずっと続いている線のようなものです。
ショーを拝見すると、コンセプトやテーマの表現というよりは、デザイナーからのある種の “ステートメント” のようにも受け取れます。あのような形で自身のステートメントを明らかにすることに不安やプレッシャーを感じたりはしないですか?
不安は常に抱えています。それは自分や自分の能力の低さに対する不安ですね。自信なんて一度も持ったことがないですから。でも、だからこそ僕は続けているのだと思います。
ファッションデザイナーとしての喜びや醍醐味を感じるのはどんな時ですか?
最初のサンプルが上がってきた時は、僕にとっての子供が生まれたような感覚なのではないでしょうか。 2 回目の驚きというか感動は、ショーのキャスティングが始まって「オープンフェイスはこの子だな」というモデルに洋服を着せた時ですね。対して、ショーのリハーサルや本番で感情が溢れることはほとんどありません。そもそもショーの本番を僕は見ることができないですから。