まずはお二人のオリジンから伺いたいのですが、子供の頃から音楽が身近にある環境だったのでしょうか。自身のバックグラウンドを教えてください。
Maurizio兄たちが聴く音楽を僕もよく聴いていて、その多くが Lucio Battisti や Loredana Bertè といったイタリアンポップス。僕は1971年生まれだから、子供の頃は80年代の音楽を耳にして育ったんだ。その後、イタリアとベルギーのクラブへ遊びに行くようになって、イタリアでは当時主流だったイタロディスコに触れ、ベルギーではシカゴのアシッドハウスに似た音楽ムーヴメントであるニュービートサウンドに感化された。つまり、僕に影響を与えたのはその 2 つの音楽だろうね。
Ugo僕の両親は移民で、1960年に南イタリアからフランスへ渡り、70年代にローマに戻ってから市外の田園地帯に家を建てた。その田舎で僕は動物たちと一緒に、家族の農作業を手伝いながら育ったんだ。家にテレビはなかったけどレコードがあって、父も母も素晴らしい踊り手で歌も上手かった。60年代に彼らはパリで暮らしていたから、当時は毎週末パーティで楽しんでいたらしい。その影響でツイストのヴァイブスやフランスのメロディックな曲など、両親がパリから持参したレコードを僕もよく聴いていた。家族では僕が一番幼くて、グラムロックやアクロバティックなダンスに夢中だった従兄弟たちがよく一緒に遊んでくれたよ。
若い頃はどのような音楽やカルチャーに傾倒していましたか?
Maurizio若い頃はいろいろなスタイルの音楽を聴いていた。ニューウェイブやサイコビリー、テクノやハウス、ヒップホップ、ダブ、アンビエント、インダストリアル、エクスペリメンタル、スペースロック、そしてイギリスのフリーフェス・シーンのサイケデリックミュージックも聴いた。最近リリースしたコンピレーション『DJ Athome presents Spaced Out!』は、僕の青春時代であるこの時期に捧げたものなんだ。
DJ Athome presents Spaced Out!
Mental Groove Records / Musique Pour La Danse
2021
Ugo小学校の卒業祝いにダブルカセットのラジカセを買ってもらって、その日からラジオを聴いたり、音楽や音をカセットに録音するようになった。当初は Spandau Ballet や Simply Red、Madonna、Cock Robin、そしてなにより Wham! にハマって、あと、 George Michael も大好きだった。80年代後半になるとラジオでヒップホップやアンダーグラウンドのハウスミュージックを知り、それらのリズムが、ゲイとしての自覚が芽生え始めた当時の僕に自信を与えてくれたんだ。
音楽に心が震えた一番古い記憶を教えてください。
Maurizio12歳の時に初めて買ってもらったターンテーブルで 7 インチのレコードをかけた時は感動した。それからは毎週決まって新しいレコードを買いに行ったものだよ。あと、イタリアの有名なラジオ局 Rai Stereo Due で録音した DJ Mix をウォークマンで聴き始めた時も感動的だった。ミキシングとスクラッチの技術をそこで発見したことが、僕の音楽的嗜好に影響を与えている。それに、映画『Beat Street』を見て、DJ やブレイクダンス、スクラッチ、グラフィティなどのカルチャーと出会った時も衝撃を受けたね。
Ugo
両親がフランスから持ってきた Phono Suitcase (スーツケース型レコードプレイヤー) は僕にとって初めてのおもちゃで、物心つく頃にはこの小さなターンテーブルの前で何時間も過ごしていた。レコードに触れて、再生速度を速くしたり遅くしたり、逆再生してみたりしてね。両親は少し呆れながらも僕のこの音楽遊びを後押ししてくれて、誕生日やクリスマスには新しいレコードを買ってくれた。よく覚えているのは、 6 歳の誕生日に「ヘンゼルとグレーテル」のレコードをプレゼントされたこと。そしてその数年後にはカセットテープのウォークマンを買ってもらったんだ。
音楽家としての感性や価値観の形成に影響を与えた人物や作品を教えてください。
Maurizio僕はスクワットや自主運営のイベントに頻繁に出入りしていて、それが自分の音楽家としての進化を方向づけたと言える。そうした場所は全てのミュージシャンが制作を始めるための自由を、通常のクラブ以上に与えてくれるからね。
Ugoヒップホップのグルーヴや初期のハウスミュージックに傾倒していた10代の頃、同じ学校に通う年上の DJ に出会ったんだ。彼は踊りながらスクラッチやミキシングをしていて、そんな DJ を初めて見た僕はすっかり感化されて、放課後には彼と一緒に多くの時間を過ごしたものだよ。14歳だった僕はそのターンテーブルで遊び、ついにはミキサーに触れ、踊りまくったりして。彼は素晴らしいブレイクダンサーだったから、実のところ僕は厄介者だったんじゃないかな。そして、そのすぐ後にある男性と情熱的な恋に落ちて、その彼はオルタナティヴロック、ポストパンク、インダストリアル、ポストロックをはじめ、スクワットのシーンやインディペンデントなオルタナティヴミュージックに深く傾倒していたから、彼との関係を通して、全く異なるヴィジョンでより多くのサウンドを探究し、多くの喜びを見いだすことができたんだ。
お二人は DJ やパーティのオーガナイザーとして豊富な経験を持っていますが、Front de Cadeaux (F2C) として活動する以前の経歴を教えてください。
Maurizio90年代後半に友人たちとインディペンデントレーベル Pneu Records を立ち上げ、 DIY のアプローチで自分たちの作品を発表し、僕自身もそこで 2 枚のミニアルバム『Everybody’s Jabitudiliki』をリリースしている。そしてそれ以降、他のアーティストたちのリミックスも手がけるようになったんだ。2000年代初頭になると DJ やミュージシャン、グラフィックデザイナーといった同じグループの仲間と、国内外のアーティストを招いて Palais Chalet というフリーパーティのオーガナイズを始めて、ベルギーやフランス、スイスにあるスクワットで開催していた。
一方で1996年から2018年まで、地元のラジオ局 Radio Panik で毎週「Brussels Alternative Show」という番組を手がけ、最後の数年間は、このラジオ番組に参加してくれたブリュッセルのアーティストたちとよくコラボレーションをしていたよ。そして僕らはこの番組をスタジオからブリュッセルの中心部にあるバーへと場所を移し、モバイルスタジオを使って FM ネットワークだけでなくインターネットでも放送するようになった。そこでは地元の素晴らしいアーティストだけでなく、世界的なゲストを迎える機会にも恵まれたんだ。
また、F2C 結成以前から、 DJ Athome という名義で主にブリュッセルでプレイしていて、2006年に Ugo と出会ってからはローマでもよく DJ するようになったね。
Ugo僕は90年代半ばからオルタナティヴな雑誌やファンジンにエレクトリックミュージックの記事を寄稿していて、ローマでのツアーやヨーロッパ各地のフェスティバル (90年代後半に何度も開催された Sonar Festival) でいろいろなアーティストや DJ と出会ったんだ。当時は広告代理店でコピーライターとして働いていたけど、2000年から他のミュージシャンと一緒にデザインスタジオを設立し、その後 7 年間ほどパーティやフェスティバルのオーガナイズをしたり、音楽の制作にも取り組んでいた。 Radiodd というそのグループの一人が Rodion で、スタジオで共に過ごす中で機材の使い方や音の録り方を彼から教わったんだ。 Rodion が最初に立ち上げたプロダクションでも一緒に仕事をしたし、 Alien Alien という名義で多くの作品をプロデュースした。そして今も彼とは一緒に音楽を制作している。 DJ としての活動はスクワットやインディペンデントなシーンを中心に、ダンスカルチャーと関連した同性愛者のムーヴメントに参加したり、クィアのオルタナティヴシーンにずっと関わってきた。
Maurizio はベルギーのブリュッセル、 Ugo はローマ在住ですが、それぞれの都市におけるダンスミュージックの潮流や変遷をどのように捉えていましたか?
Maurizio多くのアーティストだけでなくあらゆる音楽シーンが存在するブリュッセルは、常に音楽と密接な関係にある都市。その変遷について言えば、ウェブラジオのライヴストーミングのコンセプトと同様に、むしろ技術的な発展によるところが大きい。例えば、ブリュッセルのロイヤルパークにある Kiosk Radio は、毎月の出演アーティストを結束させることでローカルシーンの認識を一変させた。それによって、確かに音楽がより身近になったと感じるよ。
Ugoアンダーグラウンドの音楽と商業的な音楽との距離はどんどん広がっている気がするんだ。多くの人たちが DIY カルチャーにはまっているし、テクノロジーの発達によって誰もが容易に制作できるようになった。特に僕の場合は、あらゆる人がそれぞれに作りだす独特な音楽をよく聴くようになったね。
お二人はどのように出会い、関係を築いていったのでしょうか。当初から音楽に対するアプローチに共感していましたか?
Maurizio僕らはベア (太って毛深い、髭を生やしたゲイ) 向けのチェットを介して出会ったんだけど、セックスの話よりも音楽や DJ への熱意の話ですぐに盛り上がった。その後、Ugo が僕を DJ として彼のパーティに招いてくれて、そこで、僕らが一緒に音楽制作に取り組めばさらにステップアップできるじゃないかと意気投合したんだ。
その後、2013年の F2C 結成までの経緯を教えてください。 45rpm のレコードを 33rpm に速度を落としてかけることは以前からそれぞれ行なっていたのでしょうか?
Maurizio異なる速度でレコードをかけることは、F2C 結成以前からやっていた。ベルギーではニュービートの時代にトラックの再生速度を変えてプレイする風潮があったから、これについては僕らが編みだしたわけじゃないんだ。
Ugo僕に DJ を教えてくれた一人に Marco Foresta (イタリアの DJ 集団である Ivreatronic 所属の別名 Fabio Fabio) がいて、彼はターンテーブルを “音を発生させる楽器” として捉えていて、いろいろと面白い使い方をしていた。これは、子供時代に僕が遊んだ Phono Suitcase にも通じる姿勢だったんだよね。 DJ としてヒップホップやトリップホップを古いイタリアのサウンドトラックとミックスするようになって回転速度で遊ぶことが増え、さらに Maurizio と出会ったことで、この手法をより深く探求するようになっていったんだ。